死んで何かを残そうとする人たちがいる。
ある程度の年齢になって、あるいは今際の際になってから、この世に何かを残していきたい、と考えるようになる人たちもいる。
邪でもあるし、愚かしくもある。
この世に残る、死んでもこの世に残るものというのは、金とか名誉とか、財=goodsの類であって、交換可能なものだ。別に誰であっても「稼ぐ」ことのできるもので、譲ったり残したりできる。
逆に言えば、それはこの世に残るので、あの世には持っていけないということだ。
エジプトの諺にالكفن مالهوش جيوب死装束にポケットはない、というものがある。財とは「置いていく」しかないものだ。
金や物ではなく、「もっとかけがえのないもの」だとしても、それが「この世に残す」ことのできるものなら、要するに財ということでしかない。
本当に値打ちのあるものは、この世に残らない。
死んだらなくなってしまうものだけが、交換することのできないものだ。
死んだらなくなる、ということは、それは死んだ人が持っていったということだ。だからこの世には残らない(持っていった先でどうなったのかは知らない)。
ある武術家が「十億だして息子に武術を伝えられるなら出す。それほど子は可愛い。だがそれは叶わぬことだ」という内容の言葉を残しているけれど、彼が「この世に残す」ことのできなかったものは、それ故にこそかけがえのないものだった。
それは彼が「持って行って」しまったけれど、かけがえのなさを理解できる者がいれば、もう一度似たものを掴む者もやって来るだろう。そこで見出されたものは、同じものではないが、本当に値打ちのあるものは、そうやって再発見するしかないのだ。
車輪を再発明してやっと意味の出るものでなければ、死装束のポケットには入らない。
死んだらなくなってしまうもののために、なるべく多くの時を捧げたい。