今日たまたま、以前に頂いた本が希少本になっていてAmazonで凄い値段が付いている、というのを知りました。
「これはしめた!」と思い、売ってボロ儲けしてやろうかと思ったのですが、頂きものだけに気が引けます。やはり売るのは止めにしておきました。
ここで気付くのですが、貰ったものは貰い切れていません。
普通に買ったものであれば、もう手にしたモノは完全に自分のもので、売ろうが焼こうがわたしの勝手、という気がするのですが、プレゼントされたものは誰でもそんなに簡単に割り切れるものではないでしょう。貰ったのだから自分のものの筈なのに、何か臍の緒のようなものがひゅるひゅるとまだ伸びていて、切れていません。
要するに贈与の機能ということで、現代思想的文脈で整理してしまえばスッキリと抽象的に収まってしまうのですが、リアルな感覚として生活の中で発見すると、また気づきが得られます。
臍の緒があちこちに伸びていると、こんがらがって身動きが取れないし、鬱陶しくて仕方がありません。ですから、なるべくスッパリ紐が切れる仕組みが発達していって、それはそれで大変結構なことなのですが、元を正せば紐はつながっていたものです。スーパーで野菜を買って、その野菜は農家の人が作っているにしても、農家の人は魔法使いではありませんから、無から野菜を作るわけではありません。種を蒔いても育てるのは大地や太陽で、主の恵みです。
わたしたちの象徴空間は交換によって回りますが、その経済圏自体に外部から注ぎ込まれている力は、一方的に「貰った」ものです。
「貰う」というのは、単にタダで手に入れる、ということではありません。対価の多寡というのは本質ではないですし、いくらか謝礼を支払おうが、相応の労働を返そうが、「貰っている」ことになるものはあります。要するに臍の緒がひゅるひゅる伸びている状態です。
わたしたちはスッキリした交換に慣れているので、この交換をベースに臍の緒を特例として理解しようとするのですが、本当は臍の緒の方が先で、絶対的な外部から勝手に力を注ぎ込まれています。命だって「貰った」ものですが、「貰ったもんはウチのもんや、何をしようが勝手や」とはならないでしょう。
別にここからお説教臭い結論を出そうというのではないのですが、臍の緒の鬱陶しい力を忘れて、カラカラ回る交換だけの話をしているものは、どれも虚しいものです。まぁ空虚なのも勝手なのですが、そういう言説の主たちは傍目にいかにもつまんなくて不幸そうなので、真似をしないように気をつけています。
一方で、貰い物に対するどこか居心地の良くない感じを解消するための方法というのは、様々な形で様式化されています。犠牲を捧げるとか五体投地で山の周りを回るとか、そういったことです。それはそれで、せっかく様式があるのだから様式通りにすればよろしい、というのは尤もなのですが、様式をそのままただ様式として受け取るということは、交換に堕してしまおう、ということでもあります。様式は尊重した方が身のためなのですが、これが大上段に振りかざされてお説教になると、いかにも形骸化して嘘臭いです。そんなものでは、到底臍の緒は断ち切れるものには思えません。
ですから、臍の緒をなんとかする、という営み自体は必須にしても、様式を切り売りしている人たちは単なる商売人ですから、あまり相手にしなくてよろしいかと思います。既定の様式を横目で見ながら、再発明するくらいのつもりが、一番真摯なのではないでしょうか。