Categories: ノコリモノ

「わかっていない」ことをわかってしまっている時、わたしたちは外国語を上手く話せていない

 真理を語っている時、わたしたちは常に「自分の言っていることがわかっていない」。
 そして母国語で話す時、あるいは十分にある言語に「感染」されたとき、わたしたちは「自分がわかっていない」ことがわからなくなる。
 慣れない外国語を話す時、わたしたちは「何を言おうとしているか」を知っている。翻せば、「わかっていない」ことをわかってしまっている。期せずして意図せぬ理解をされたり、あるいは何も理解されなかったり、という可能性に怯えている。何が語られてしまっているのか、何がわたしたちの口を借りて繁殖しているのか、知悉し切れないということに自覚的なのだ。
 だから、この「自覚」を果てしなくゼロに近づけることこそ、外国語を学ぶという行為だ。
 わかっていないことがわからなくなった時、わたしたちは言葉を「流暢に」話している。
 そして「自覚」が失われる前でも後でも、真理は知らない間にだけ伝達されている。

kharuuf

Share
Published by
kharuuf

Recent Posts

カミユ『ペスト』

 カミユの『ペスト』を漫画化し…

6か月 ago

私信です

このポストはまったくの私信です…

3年 ago

不可知論のギリギリ一歩手前で永遠に宙吊りにされた

何が正解かわからないから人はパ…

3年 ago

体験の墓石

写真は多くの場合、最初は体験と…

3年 ago

過去が圧倒的にわたしたちを飲み込んでいる

過去を肯定する、という言い方は…

4年 ago