これは非常に誤解を受けそうな内容で、かつ丁寧に語る気力もないので、極めて限られた方たち以外にはスルーして頂きたいことなのですが、とても鋭く気に入った一言があったのでメモしておきます。
「5分で分からない!主権返上を目指す会 – 法華狼の日記」という記事に対するCrowClaw氏のブックマークコメントです。
ファッショの根底が「自身の主権(主体)を絶対者に明け渡すマゾヒズム」だとすると別に間違ってない。彼らは本気で「(自分も含めて)人権なんか無くなればいい」と考えてる。これは(国家ではなく)社会への憎しみ
元となっている記事は、ある種の右派勢力の主張を荒唐無稽と批判するもので、(おそらくCrowClaw氏もそうであるように)この内容自体は尤もで、確かにこの手の「漫画的」右派言論には相当馬鹿げたところがあります。また、こうした主張に対して一応釘を差しておこう、というのも理解できます。
ただ、ここで言いたいのは元エントリの主張のことではなく、一周回って「それはそれで正しい」と看破しているCrowClaw氏の慧眼です。しかも根底にあるのが「(国家ではなく)社会への憎しみ」というのが非常に鋭い。
わたしは、こうした一部の右派言論について、言論そのものとしては荒唐無稽と考えるものの、ここでコメント者が指摘しているような意味で、心情的には大変共感するものがあります。そしてこうした憎悪と、それを仲裁する手段、といったものは偏在する社会要因として捉えるべきで、その点を拾えていない(左派)言論は、見た目上の筋道としての正しさがあったとしても、支持も共感もできません。
一般に、「まともな」学問的筋道を立てた言説というものは、こうした憎悪の仲裁手段として、「実際的」な社会システムや国家を立てるものです。それをどう活用するか、具体的な方法は様々であれ、基本的に「等質な人間たち」によって構成される(と信じられている)システムに預けようとします。
これは普通に考えて、まったく「まともな」考えで、筋道に歯向かう気はないのですが、「その仲裁はあまりうまく行かないだろう」という予感を覚えます。たとえ現象として仲裁がある程度機能しているように見えたとしても、実のところ、それは彼らの考えているシステムによってもたらされた成果ではないのではないかと考えます。
なぜならそれが「まとも」で、「等質な人間たち」というフィクションから一歩も出ていないからです。
断っておけば、それが「フィクション」であることは、こうした言論の主張者自身も認めないところではありません。フィクションといっても、それは理想気体とか経済モデルの前提的な仮構のようなもので、嘘っぱちとかそういう意味ではないからです。しかし一方で、この前提に対し正面から批判する者がいれば、全力で撃ち返さなければならない性質の「フィクション」でもあります。そこでは大真面目な態度で「フィクション」の実際性を主張しなければ「ならない」のです。なぜなら、そここそがこの言論と世界観の倫理的基盤だからです。倫理的に「フィクション」は現実でなければならない。
ですから、ここで疑義を挟もうというのは、「フィクション」のフィクション性ではありません。その主張内容、等質性そのもののことです。
正確には、最終的に、等質性・平等性そのものについては、肯定的に考えています。ただ、そこに至る経路として、排除される一者を大前提とするだけです。
例えば、日本における右派勢力であれば、天皇陛下を一者とするでしょう。
しかし実際の人間を一者とすることの是非については、わたし自身はこれに対する批判勢力と意見としては同等です。個人的に、天皇陛下ご自身については「好き」ですし、また敬意も抱いていますが、「人間でありながら同時に特別である」存在を認めはしません。
ですから、一者は唯一者でなければならないのです。
この唯一者とは直接の経路が開かれていませんし、確かめることもできません。正確には「かつては開かれていたが、もう閉じられた」ものとして語られます。「かつては開かれていた」のは、はっきり言えば、唯一者の真実性を担保するためです。
唯一者には唯一者の権利الحقがあり、わたしたちの「主権」一部は彼に属します。ただし、権利の何もかもが放棄されて預けられる訳ではありません。人間にも人間の権利الحقがあります。
なぜそんな得体の知れないものを想定しなければならないかと言えば、めちゃくちゃなことを言いますが、本当に存在するからです。ここはめちゃくちゃでないといけないのです。それは天皇陛下を特別と考えるのと同じ事で、筋道としては飛躍しているのだけれど、飛躍していないと心に訴えることができないのです。
預けられた分の権利は、唯一者が保持していますから、それを人間の誰にも自由にすることはできません。できてはいけません。
実際上は、ここで色々な人間たちが間に入って、唯一者の権利を掠め取ろうとします。いわゆる宗教者的階層というのがそれです。聖職者ではなくعلماءである、というのはこれを防止するためでしょうが、はっきり言って実際にはウラマーゥだろうが何だろうが、同じような働きをしてしまうことがままあります。わたし個人としては信用しませんし、そのような「政体」も信じません。
ですから、こう言ったところで、具体的な政体として実現できるのは、せいぜいのところ天皇主権的政体と五十歩百歩なのではないかと思いますが、運動の力線としては、それを越えるところを目指しはしています。目指しても多分無理なので、そんな中途半端でどうしようもないものよりは、とりあえず「国民主権」とでも言っておけ、というのはよく分かります。わたし自身も、おおよそそんな風に考えています。しかし、大抵の場合は、こんな投げやりな気持ちで主権を語っていないでしょう。上述のように、こここそ彼らの倫理的基盤で、踏ん張らないといけないところだからです。これは支持できません。なぜなら、わたし(たち)の倫理的基盤はそこにはないからです。
投げやりな気持ちで「国民主権」な「民主主義国家」で手を打ち、一方で唯一者の権利を担保し憎悪を仲裁することは可能なのではないかと考えますし、また似たような二重性はかなり広い地域で見られるものです。
最初に書いた通り、非常に微妙で十中八九誤読されそうな内容なので、ピンと来ない人はどうか忘れて下さい。