闘を見せています。こうした事態に、所謂リベラル派勢力やキリスト教徒は戦々恐々としている訳ですが、それでも当然ながら、(割と)公正な選挙が行われた現況は非常に喜ばしいことだと思っています。
なぜこんな当たり前のことをわざわざ言うのでしょう。
革命前、少なからぬ権力側の人間が、「エジプトには民主主義はまだ早い」といようなことを言っていました。また権力サイドではなくても、文化人の中には、識字率すらおぼつかない状況で自由選挙なんてやったらどうなることか、と思っている人がいます。革命前に書かれた本ですが、当サイトでよく取り上げてるアル=イシーリー氏も「民主主義」に疑義を呈しています。そしてこうした心配は、誠に尤もなことだと思います。実際、非常に多くの大衆が、本当に何も考えていませんから。
またこれも当然ながら、「民主主義」という鵺のような呪文がすべてを実現してくれる訳ではありません。これが本当に「良い体制」なのかも分かりません。わたし個人としては、ジジェクの言うように「最低の中では一番マシ」なやり方であると考えていますが、これは要するに、わたしたちには「最低の選択」以外何もないのだ、という諦念、それと同時に、クソしかないけれど一番マシなクソを選んで生きていこう、という決意を引き受ける、という意味です。
こうした前提の上で、なお「自由選挙」がエジプトでも行われた方が「マシ」だと考えるのは、これが責任というものを考える良い契機になるかと思っているからです。
エジプトで一定期間以上暮らしたことのある方なら誰もが御存知でしょうが、もう本当に、心の底から、この国はテキトーいい加減で、秩序がなく、あらゆることが予定通りに進みません。総てではありませんが、多くの人に責任感というものがあまりにも乏しいです。
このことは公衆道徳や自由と結びついています。どういうことかと言えば、これまたエジプトを知っている人なら誰でも知っていますが(特に女性)、エジプトは痴漢や女性に対する嫌がらせが非常に多く、特に外国人は酷い目にあいます。これには多くの原因がありますが、その一つは、少なからぬエジプトの男たちが、「外国=自由=何でもできる」だと考えていることです。確かにエジプトは、性的側面について制約の多い社会ですが、制約の少ない社会、つまりより「自由」な社会であれば「何でもできる」かといえば、そんなことはないのは明白です。自由には常に責任がついてくるからです。しかし、一部のエジプト人は、自由というのは要するに「何でもできる」ことだと思っていて、それに伴う責任というものを分かっていません。
鶏と卵みたいな話ですが、責任感が生まれるまで自由をまるっきりお預けにしていても、多分いつまで経ってもガキンチョあるいは野獣のままでしょう。その方が権力にとって都合が良いからです。ですから、もうここは思い切って、「自由」なるものを与えるべきです。そして同時に、自らの選択の持つ重みというものを、学習したら良いのです。
その課程で無数の混乱が予想されますし、政治的体制ということで言うなら、「民主主義」に対するある種のバッファ機構、暴走を防ぐしかけというのは、必須でしょう(アメリカ大統領選挙のシステムのような、「あまりに直接民主的になりすぎない」ようにする仕掛け)。それでも、うまくこれを契機とすれば、エジプト全体で多少は責任意識が上がってくるのではないか、と期待したいです。
至大なるアッラーもلا تزر وازرة وزر أخرى(誰も他人の罪、責任を負うことはできない、という意)とおっしゃってますし、イスラーム的にも間違った考えではないと思うのですけれどね1。
エジプト人には、個人レベルで見ると物凄い優秀な人が沢山いるし、極普通の冴えない生活を送っている人でも、凄まじい記憶力や身体能力、機知などを見せることがあります。それなのに集団になるとすぐグダグダになるのには、多くの理由があるでしょう。個人の主張が異様に激しいことや、属人的発想が強すぎることもあると思いますが、一つには大衆における責任意識の希薄さがあるかと思います。これが改善されれば、エジプトは相当ポテンシャルのある国だと考えているのですけれど、どうなることでしょうね・・。