括弧の意味論 木村 大治 エヌティティ出版 2011-02-10 |
だいぶ前に読んで放置していたのですが、かなりエキサイティングな一冊です。
括弧(「」やこれに類する記号)についての探求ですが、表題通り、中核は意味論および行為論。つまり、筆者の言うところの「統語論的括弧」、文章を区切って修飾関係などを明示する括弧、ではなく、区切ること自体により意味を変容させる用法が、当然ながら中心です。その機能が「メタ化」などと言って済ませられるほど簡単でないことは明白ですが、筆者はかなり執拗にこれを追跡していきます。
また、具体的な括弧的記号の歴史についても、西洋および日本について概説されています。
主な意味論的解釈は、署名と同題の第四章にまとめられていてますが、その見出しは以下の通り。
カプセル化
論理階型をずらす
引用と投写
投写構造
投写構造の俯瞰
投写構造の諸類型
特に「投写構造の諸類型」では、かなり細かな分類に立ち入っていて、「このままでは周転円的な分類迷宮に陥るだけなのでは」と不安にさせられるのですが、その後の「括弧の行為論」で、再度斜め上から斬新な接近の仕方を試みます。
本書の一般的な書評は他にいくらでもあると思うので、個人的に気になった関連事項を触れておくと、アラビア語における括弧です。
二点ありますが、一つは些事で、使用されている記号の種類。アラビア語では台詞であることの明示等には、ギュメ(のような記号)が使われていることが多く、ダブルクォーテーションはそれほど見かけません。ないわけではないのですが、どちらかというと、文章中での区切りに使われるケースが多いようです。また、丸括弧が、一般に用いられる「補足・挿入であることの明示」意外に、台詞であることや外来語であることの明示に使われるケースがあります。特に映画の字幕では、外国人の名前は大抵丸括弧で括ってあります。
もう一つが興味深い点で、前にもどこかで書いた気がするのですが、開始の括弧があるにもかかわらず、終わりの括弧がない、というケースがまま見られる、ということです。
書き忘れか編集ミス、という場合もあるかと思うのですが、それだけでは済まない頻度で散見されます。
本書『括弧の意味論』でも触れられているのですが、そもそも括弧の記号というのは、最初は始まりだけが明示されるものだったようです。お尻も明示されて「ここからここまで」というスタイルが確立されたのは、括弧出現より後のことです。日本語における庵点も、最初だけが明示されて最後は明示されません。日本語で両端が明示されるスタイルができたのは、明治二十年以降とのことです。
つまり、括弧というのは、そもそも「始まり重視」のもので、わたしたちが即座にイメージする「メタ的な挿入」のような捉え方(意識の仕方)は、一定の歴史的経緯と訓練の後に獲得されたものだと考えられます。そしてアラビア語の文脈では、今でも「始まりだけ」の場合が時々見られる、ということでしょう。
本書第二章の、括弧の「相互行為の枠づけ」という観点が語られている箇所で、以下のような下りがあります。
また「出会い(encounter)」という現象も、相互好意的な区切りの典型的な例だろう。ここで言う「出会い」とは、出会いの瞬間のことではなく、出会ってから別れるまで続く、相互行為の状態のことである。出会いには明らかに「私たちは出会っている」という感覚が伴い、それを形作ることと終了させるときには、挨拶という特徴的な相互行為が必要となる。
この箇所についての注で、チンパンジーの挨拶行為について触れられています。チンパンジーの出会いの挨拶は非常に目立つ相互行為なのに、別れについては明確な挨拶が観察されないそうです。つまり「始まりだけで終わりのない(はっきりしない)括弧」ということです。
しかしよく考えると、確かに人間は別れの挨拶もしますが、重要度やバリエーションの豊富さなどでは、やはり始まりの挨拶の方がずっと比重が重いです。アラブ人は一般に非常に挨拶が長く、久しぶりに会ったりすると、本人はもちろん、「家族の誰々ちゃんは最近元気か」など、延々と家族の近況を聞くのが礼儀、みたいなところがありますが、終わりはさすがにこれほどではありません。おそらく人間の挨拶も、チンパンジー同様、基本的には始まり重視で、「始まりとお尻を括る」様式というのは、後代になってから確立されたものでしょう。「始まりがあるなら必ず終わりがある」、「メタ化」する、という視点自体が、実はそれほど根の深いものでもないのです。
以前に「読み書き能力と状況依存的思考 A・R・ルリアの調査から」というエントリで、非識字者の思考様式について触れましたが、一般に字の読めない人々は、カテゴリ的思考を苦手としています。苦手というより、そういう発想が必要ない、馴染みがない、ということでしょう。「メタ化する括弧」という見方は、いかにもカテゴリ的・リスト的発想の産物ですが、そうした見方が、わたしたちの思っているほど本源的ではない、ということは、識字者こそ「思い出す」必要があります。
始まったものが必ずしもキチンと終わらず、終わらないままに何となく元の文脈に帰っていく、あるいはそもそも帰らず、さらに別の文脈に流れていく。そうした「挨拶」あるいは「括弧的なるもの」の方が、より深くわたしたちに根ざしているはずなのですが、こういって連想するのは、別役実の戯曲です。別役の作品は、分岐が生まれたかと思うと、そこから本流にキチンと帰らず、支流のさらに支流に入り込んだり、そこがすっかり本流になってしまったり、といった、幻惑的な構造がしばしば見られます。
ここからもう一度「出会い」に戻ると、「現代的」な出会いはキッチリお尻までクォートで括られているのかもしれませんが、本当のところは、確かに始まりはするものの、それがいつ終わるのか、あるいは本当に終わるのか、分からないものではないのでしょうか。瞬間としての出会いは、シフトチェンジのような緊張感を生みますが、その緊張が「ここまで」という印で終了される、というのは、かなり洗練された社会環境の、かつ限定的な領域でしか成り立たないものでしょう。
道でバッタリ出会った男と、うっかりそのまま旅を初めて、突然に行き倒れる。大体人生はそんな感じのように思います。