割と伝統的なお話ですが、わたしたちが「わたしたち」「我々」と語ることには、特別な意味があります。
「わたしたち」と語る時、それは単なる「わたし」が、「わたし」を超える何者かを背負い、何者かを代表し、自らが何者であるかを示して、話しているからです。「わたし」は「わたしたち」に対して責任を負うし、その限りにおいて「わたしたち」の力を借りているわけです。言わば、単なる「わたし」であることの気軽さと自由を一部犠牲にして、その代わりにパワーを借りているのです。
要するに元気玉のようなものです。「わたしたち」と語ることで「皆んな」の力を借りる代わり、悟空には元気玉を正しく使う責任があります。そして責任を負える人、自由奔放さをいくらか犠牲にすること、より正確には、無方図で考えなしな行いを初めからしないと思われている人でなければ、「わたしたち」の力は降りてきません。確か悟空がセルと戦った時、最初に悟空やらベジータやらが地球全体の人に話しかけるのですが、皆は訝しがって力を貸しません。しかし、本当は弱いミスターサタンが話しかけると、皆信用して力を貸します。ミスターサタンは「弱い」ですが、「わたしたち」の力を借りられる限りにおいて悟空よりも強いし、本当はそういう人が一番強いのです。
ここまでは割とすんなり了解できることかと思いますが、本当のことを言えば、元気玉のように「わたし」が沢山あつまって「わたしたち」になるわけではありません。「わたしたち」には「わたし」の集合以上の力、「わたしたち」そのものという、集合自体を指す要素が加わっています。この力が、しばしば非常な悪辣さをもって「わたし」の集まりには抗しがたい災厄を招いたことは、歴史を知れば明瞭なことです。
「わたしたち」に対し、無自覚に耽溺する者は、既に悪魔の囁きに身を犯されつつあります。関東大震災では朝鮮人が井戸に毒を入れたという噂が流れ、今回の震災でも規模は違えど似たような事例がありました。アラブ世界を眺めていると、陰謀論が幅を利かせている場面によく出会いますが、そういう時も「エジプト人がそんなことをする訳がない」「ムスリムがそんなことをする訳がない」という、ナイーヴな「わたしたち」に対する防衛意識が働いています。その結果、「わたしたち」ならざる者に対して、「わたしたち」そのものという要素の人智を超える(悪辣なる)力をもって、「わたし」には到底成し得ないような残虐さや無知蒙昧を発揮してしまうのです。
こういう場面を前にして、主知主義的あるいは理性的な人物であれば、「わたしたち」に対して慎重に構えるでしょう。これはまったく正しい。しかし、「わたしたち」を排除し、「わたし」の集合でものを考えようとすると、これは倒錯に入り込んでいます。すべての言明に「・・・とわたしは思う」「I think that」と付けるような、冗長さと無力さです。
わたしたちは時々、I think thatと言いますが、常にではありません。本当のところ、「わたし」という次元では、常にI think thatな訳ですが、普通はそんなことをしません。これを省略だと考えるのは周転円的な倒錯であって、I think thatが特別なのは、単にそれが特別だからです。ある種の限られた状況においてのみ「わたし」が敢えて語るのです。つまり、それ以外の部分は、本当にI think thatを付けないで「正しい」。なぜなら、それは「わたし」が語っているように見えて、「わたし」以上、あるいは未明の者が語っているからです。
「わたしたち」に対して慎重に構えることが必要でも、それは「わたし」に総てを還元するということではありません。
順序が逆なのです。
「わたしたち」が最初に語っています。そして時々、「わたし」が語る。本来特例であった筈の「わたし」が肥大し倒錯的になると、「わたし」の集合への還元、あるいはI think thatの濫用、さらに言えば独我論的な袋小路へと追い込まれることになります。
「わたしたち」が最初に語っているということは、元気玉を集める、その元気の元はどこなのか、ということです。元気は「わたし」が持っているものですが、「わたし」が作ったものではありません。「わたしたち」から分与され、借り受けているものです。元気玉は言わば又貸しです。
ここに気付くことができないと、いつでも「わたしたち」は暴走し始めます。
「わたし」が好きなように「わたしたち」を選び、操り、その力を引き出せると考えるのは、自らに権利と力があり真の主体であるかのような幻想を抱かせながら統御するポストモダンな父のように(あるいは狡猾な「民主主義」のように)、既に魔物の餌として自らの身体をさし出してしまっているのです。
悪辣なる者から身を守るには、「わたしたち」の強力な力を警戒し、「わたし」に撤退することではありません。実はそここそが、魔物の住処なのです。
そうではなく、寧ろ前にでなければならない。実は最初から、「わたしたち」が語っているのだということに気づかなければならない。
「わたしたち」は、そもそもの初めからいかなる「わたし」よりも強力で、「わたし」たちはその元気を分与され、借り受けているに過ぎません。だから、「わたし」は「わたしたち」を選んだりできません。「わたしたち」が「わたし」を選ぶし、「わたし」が既に存在している限りにおいて、「わたし」たちは、常に「わたしたち」に選ばれています。ただ、その事実を忘れてしまっているだけです。
クルアーンでは、アッラーはしばしば「わたしたち」と一人称複数で語られます。これはアラビア語の言語的特徴に帰される部分も大なので、ここで語っている「わたしたち」と単純に一致させることはできませんが、示唆を得ることはできます。
主は「わたしたち」であり、「わたし」たちは主に「選ばれた」限りにおいて存在し、その御力を借り受ける。
主が御一人であり、絶対的な一者であるにも関わらず、複数形で語られるというのは、正にそこにおいて、「わたし」と「わたしたち」が一致するというこです。その場所以外では、両者は常に焦点のボケた形でしか、近似に至れません。
「わたし」は常に間違った形でしか「わたしたち」を用いられません。ただ「わたしたち」の始まりの点、その一点を除いては。もちろん、その点自体に「わたし」が「わたし」のまま直接至ることなど不可能です。
「わたしたち」は一つです。
だから、「わたし」たちは、強者が強者たるのは相対的弱者が存在するから、強者は常に相対的強者にすぎないことを識り、一つのものとして行動しなければなりません。誰も、世界に一人だけで「強者」になどなれない。
その一方で、「わたしたち」が一つたれるのは、そもそも「わたしたち」と語られる、唯一の点においてのみです。その場所以外で「わたしたち」を軽々に用いる時、その用法は「常に」間違っている。もちろん、絶対的に正しい「わたしたち」に、「わたし」が直接至れることもありません。
あるとしたら、「わたし」の都合を全く無視して、「わたしたち」の方から一方的に語り出された時だけです。