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意図と内面と数えられなかった羊

 意図は「内面」にあるのでしょうか。
 例えば、飛び出した子供を轢いてしまった運転手がいたとすると、彼は人を殺したが、殺そうとして殺したわけではありません。彼の意図は殺人にはなかった。
 良かれと思ってやったことが、悪い結果を招くことがあります。こうした場合でも、意図が良きものだと分かれば、わたしたちは大抵、情状酌量の余地を認めます。
 わたしたちが目にするのは結果です。物質的な結果ですが、そこには直接現れないものがある。わたしたちは尋ねます。「なぜこんなことをしたのか」。意図はそこで語られます。意図は言語を介在して他者たちに伝えられます。
 伝えられた時、人々は彼の「内面」に意図があったのだ、と考えるでしょう。遡及的に「内面」が想定され、そこに自らの「内面」と似たものを認めるからこそ、わたしたちはそれを意図として承認するのです。
 しかし例えば、満面の笑みをたたえドラえもんの主題歌を絶唱しながら次々と人を殺す人間がいて、捕まった後で「人々をサタンの呪縛から解き放とうと思った」と言った時、確かに彼の意図は「善きもの」ですが、わたしたちはこれを「正当な意図」とは認めません。彼は端的に気が狂っていると見做されます。
 割と古典的な言語行為論の議論ですが、わたしたちが「意図」と呼びならわしているものは、「内面」に宿ると想定されていますが、その「内面」とは言語活動の内部において期待される一つの機能であり、実は言語の地平から一歩も外には出ていません。意図は「他人には絶対に伺いしることのできない内面」に宿るのではなく、言わば「他人にも伺い知ることのできる範囲の内面」において認められるのです。わたしたちが「内面」を承認するのは、その「内面」がわたしたち自身の「内面」に似ている限りにおいてです。つまり鏡像としての「内面」です。言ってみれば、他人の「意図」は、「わたしたち」の「内面」の語らいの内部においてのみ、認められます。

 永井均さんがどれかの著書の脚注で書かれていましたが(確か右ページの下!)、例えばわたしたちの怒りは、「常に正当」です。「正当」というのは、何らかの正当性の想定が背後にある、ということです。この正当性は、他人から見たらまったく承服しかねるものである場合も多々あります。ですが、少なくとも、当人はそれが正しいと、たとえ一瞬だけでも、信じていなくてはならない。そうではなく、ただ単に目を吊り上げて大声を張り上げこぶしを振り上げている人がいたら、その人は怒っているのではなく、単に気が狂っています。そのように、怒りというものは言語行為的に規定されているからです。
 一つ細かいながらも大切なことを指摘しておけば、彼の怒りの「正当性」が、すぐに理解できるものでなかったとしても、わたしたちは即狂人認定はしません。その正当性は、「わたし」には理解し難い。しかし、理解できないなりに、そういう考え方もあるのだろう、と思える。つまり「少なくとも一人理解できる者がいる」と認められる限りは、わたしたちは依然彼を「怒れる人」と考え、「狂人」とは言いません。「誰かが知っている」ことが、彼の「人間性」の分水嶺となります。翻せば、「誰も知らない」と誰もが認めた時、彼は狂人とみなされます。彼を狂人であるかどうか決めるのは、人々が「知っているはずの誰か」を諦めた時です。

 当人の語る、あるいは語らない意図が、「わたしたち」の語らいから大きく外れている場合、わたしたちはそれを意図としては認めません。「少なくとも一人」の誰かが、わたしたちによって放棄されてしまった時、意図は、「人間的意図」としての資格を剥奪されます。
 そうした場合、現代であれば、大抵は彼は狂気であるとか、知的未成熟であるとか、麻薬で頭がイカれていたとか、そうした「外部」の力の介入によって説明づけられるでしょう。時代と場所によっては、先祖の祟りとかサタンとか、そうしたものに帰せられます。いずれにせよ重要なのは、そこでは彼の「内面」は認められず、あくまで「外部」の力に転嫁されている、ということです。狂気が脳の異常により説明されるとしたら、脳という物質は正に彼の「外部」にあります。
 ではこうした場合、彼には本当に「内面」がなくなってしまったのでしょうか。「内面」より発する意図は存在しないのでしょうか。
 少なくとも彼にとっては、意図はある筈です。ニコニコしながら人を殺す「正当なる意図」もある筈です。もしかしたら、その意図は極めて清いものかもしれない。結果としての悪逆非道、そして誰一人として認めず、かつ誰一人として「少なくとも一人は理解できる」と認めないにも関わらず、意図は「善い」かもしれません。
 こうした言い方が可能かもしれません。その意図は誰にも理解できない。しかし、理解できない以上、悪とも言い切れない。それ故、ある種の救済手段として、サタンや脳の変性を彼の意図の代理として立てる。意図は判断保留のまま釈放される。

 要するに、「内面」にあると想定される意図は、実のところ語らいの中において内面なる位置に勝手に据えられている(時に剥奪される)ものに過ぎません。
 わたしにとってのわたしの意図と、所謂ところの意図は、通常大きく乖離はしていません。しかし、原理的にはいつでも乖離の可能性を孕んでいます。「内面」とされるものは、本当のところ、「この」わたしの内面とは、何の関係もないからです。
 言うまでもなく、先に立っているのは言語です。「内面」は遡及的に想定されるに過ぎません。わたしは最後に呼び出されます。意図のとりあえずの引き受け先として。
 だからこそ、本当に立ち行かなくなった時は(共同体の語らいにおいて人間的意図として承認し難い行為が発生した場合には)、いつでも意図の決定権は回収され、「あの人は病気だから」「サタンに操られているから」として、禁治産化され得るわけです。

 しかし依然、何か語りつくせていないものがあります。
 一つには、わたしは、わたし自身の意図を疑えないからです。「それは語らいから指定されとりあえずの引き受け先に指定されているからだ」と言われても納得はできないし、納得することを「禁じられて」います。ここで、「禁じられた」者の抱く意図と、実際上機能している意図は、実のところ全然別物なのですが、わたしはわたしで使い捨ての派遣社員のように扱われるのは承服しかねるのです。
 もう一つ、より面白いのは、意図の決定権を回収されてしまった残りのもの、つまり狂人とかサタンに操られている人は、どこへ行ってしまったのか、ということです。この問いは、当ブログのタイトルである「数えられなかった羊」に似ています。眠れない時、羊を数えます。一匹、二匹、三匹。羊は列を成して順番を待っていて、順番が来ると小さなハードルみたいなものをピョコンと飛び越えます。わたしは九十九匹数えて眠ってしまった。「いよいよ自分の番だ」と思ってワクワクしていた百匹目の羊は、どこへ行ったのでしょう。気になって眠れません(笑)。

 つまり、言語の側から掘っていっても、意識の側から掘っていっても、トンネルは貫通しないのです。貫通しないのに、機能している。
 何か物質的なものが機能しています。ここで物質というのは、上で物質と呼んできたような通念上のものではありません。こうした物質はイマジネールな領域にあるものであり、意識の延長に近いものです。そうではなく、絶対到達不可能なものとして意識から零れ落ちている、そうした黒い物質が機能し、トンネルをつなげているのです。

 意図の決定権を剥奪された後にも、何かが残っている。何か「人ならぬもの」が残っています。わたしたちが本当に「内面」を問えるのは、この「人の尽き果てた後」の荒涼とした領域においてです。意識と言語の矛盾地として放棄された、ゴミ捨て場のような場所、その闇の底で、数えられなかった羊が待っています。
 人の尽き果てた後の羊がどうなったのか、わたしは知ることが出来ません。知ることは出来ませんが、信じることはできます。わたしはそこに、内面が残ると考えています。正確に言えば、内面というものがあるとしたら、そこにしかありません。極めて逆説的ですが、わたしたちは、わたしたちの内面を、わたしが滅んだ後の風景としてしか知ることができないのです。
 意図は「内面」にあるのだろうか、と最初に問いました。通常、意図は「内面」にあると想定されながら、実際のところは「内面」とは全然関係ないところに由来します。わたしたちはとりあえずの引き受け先として呼び出されただけです。
 にも拘らず、一周回って、意図は「内面」にある、と言わせて頂きます。
 その「内面」をわたしたちは知らないですが、数えられなかった羊を数える者が、わたしの滅んだ後で数えるでしょう。
 わたしの意図を、わたしは知らない。誰かが知っている。人の尽き果てた後に。

kharuuf

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