エジプトという場所は、とにかく問題だらけで、生活の中で普通のことを普通にするにも、日本より圧倒的に面倒なことが多いです。にも関わらず、多くの人々が感じることのようですが、一度慣れてしまうと、奇妙な安心感がある。実際に治安は割と良いのですが、実際以上の安心感があり、色々なことが「何とかなるんじゃないか」という気がしてくるところがあります。
対して、日本というところは、物質的には物凄い楽で、多少落ち目になったとはいえ経済的に非常に裕福なわけですが、街を歩いていても奇妙な緊張感があります。少なくとも、わたしはいつも何か不安になります。
問題があるということと、問題が気になるということは、別のことです。
問題があっても、あまり気にならずにのらりくらりとしてしまう、という場合がある。これは問題を先延ばししているとも言えるので、必ずしも良いことではないでしょうが、世の中には考えてもどうしようもない問題も沢山あります。そんなものは、先延ばししようが頑張って向きあおうが、どの道どうにもならない訳で、気にするだけ損です。問題が気にならなければ、冷静に考えると問題だらけでも、人が短い人生を生きていく上では、そんなに悪い環境ではないとも言えます。
もちろん、問題はやっぱり問題なわけで、例えばエジプトが手放しで日本より暮らしやすいなどとは口が裂けても言いませんし、そんなことを言ったらまず最初にエジプト人がキレると思いますが、「問題があるけれどあまり気にならない」「根拠のない安心感(安全感)」については、考えることが多いです。
これを考えていて、ふと「やはり彼らが基本的に善人だからではないか」という、物凄い身も蓋もないベタなことを思いつきました。
これは「貧乏は正しい」的な、脳天気な清貧幻想を語っているのではありません。また、「どこが善人なんだ、ボッタクリや嘘つきだらけじゃないか」と仰る方もいるでしょう。全くその通りです。一般的な社会道徳という点で言えば、平均的日本人の方が圧倒的に「良い子」で、汚い商売もしなければ嘘もつかず、行儀よくルールを守ります。世界的に見ても相当「お行儀の良い」部類に入るでしょうし、平均的エジプト人などとは比較にもならないでしょう。
ここで「善人」と言ったのは、言わば「悪い善人」という意味でです。
まったくの形容矛盾のようですが、要するに「善悪でものを考えている」ということです。
彼らの中には、結果としての行動において「良い」人もいれば「悪い」人もいる。一人の人間だって、時と場合と相手によって「良い」人だったり「悪い」人だったりするでしょう。「悪い」ことをして、それを「悪い」と感じていない場合もありますが、「悪い」と感じて後でこっそり神様に許しを請うていたりもする。ただ、ほとんどの場合、結果としてできているかどうかは別として、善悪というフレームでものを考えてはいるのです。
これに対し、現代日本人の多くは、善悪という基準を絶対視していないでしょう。結果として「良い」行動をとっていても、その「良さ」は社会的功利やルールに還元されるもので、絶対的な善悪という基準が、ないことはないものの、非常に希薄です。
加えて言えば、絶対的善悪というものに対して、一定の警戒感を持っている場合が少なくありません。善悪を絶対化すれば、そのフレームの外と交通が閉ざされるのではないか、暴走するのではないか、という警戒心があるのでしょう。
これはまるで間違っている訳ではなく、確かに絶対的善悪というフレームは、時々暴走してとんでもないことをしでかします。地獄への道は善意で舗装されている、ではありませんが、その構成者たちが「良い子」で、フレームに則って正しく善を実行する度合いが高いと、とりわけリスクが高まるようです。
翻って「悪い善人」というのは、絶対的善悪という基準は信じているものの、今ひとつだらしなくて、あんまりキチンと善が実行できていない、という人のことです。もちろん「良い善人」もいるわけですが、どんなに「良」くても、人間100%ということはありません。加えて、絶対的善悪と言いながら、細かいところになると結構意見の食い違いがあって、何が絶対善なのかハッキリしないところがある。
そういう人達が多数派だと、お互い絶対的な善悪というものは信じているものの、細かいところを突き合わせすぎると喧嘩になってどうしようもない、という状況に慣れていますから、枠組みさえ信じていれば、あまり細かいところはお互いツッコまないようにする。そして、この人達にとって一番大事なのは、絶対的善悪自体ですから、結果として多少失敗してしまっていても、多少のことには目を瞑るところがあります。何故なら、完全な人間というのはいませんから、結果は常に多少は「悪い」のです。
「悪い善人」もしくは「出来の悪い善人」たちが沢山いると、結果としては良かったり悪かったりボチボチなのですが、一番大事なのはその背後にある絶対的善悪そのものですから、結果の成否に一喜一憂する度合いが和らぎます。結果がどうでも良い、ということではありませんが、善悪の基準が結果としての現象にある訳ではないので、緩衝が働く、ということです。もし結果がすべてなら、悪い結果は即「悪」ですから、行動一つ一つに強いプレッシャーがかかることになります。
いかに「善人」とはいえ、あまりみんなの出来が悪いと問題なのですが、一方で出来が良すぎても危ないです。「善人」でかつ「良い子」ばかりが集まると、上で触れたように、善悪が病的な暴走を始めることがあるからです。ですから、「良い善人」がいても勿論良いのですが、「良い善人」ばかりが集まった社会というのは、あまり「良く」ありません。「良い善人」と「悪い善人」が程々に混じっているくらいで丁度です。「頑張ったけどダメでした」というだらしないヤツが一定数いれば、暴走しようにも勢いがつきませんから、ほどほの「良さ」で収まります。
「悪い善人」という概念は、言わば善悪に「遊び」をつけるものです。この「遊び」がないと、いかに世の中が「良く」ても、何か根拠もなく不安で緊張感に満ちたものになります。「悪い善人でも善人」という領域を想定することは、わたしたちは完璧に「良く」なくても「善く」あれる、ということです。そして「良さ」とは別の「善さ」があり得るということが、実際の「良さ」以上の安心感に繋がるのでは、と思うのです。
相当にナイーヴで、おそらくはかなりの勘違いを含んだ着想だということは承知の上で、とりあえず書き留めておきます。そのうちもっと精緻にキチンと考えなおしてみたいです、インシャアッラー。