音楽やダンスについて、イスラーム的評価が分かれるのはよく知られていることです。音楽そのものがハラームだという人もいるし、関係ないという人もいるし、内容に依る、という人もいます。
割とよく聞く話としては、人を幻惑し信仰から離れさせるからいけない、というような理屈がありますが、そういう根拠なら、信仰から離れさせない、または信仰にとってプラスな音楽ならむしろ喜ばしいようにも見えます。いずれにせよ、わたしは法学者でも何でもないので判断できませんし、例えどこかの怪しげなシャイフがハラームとファトワーを出しても、断然余裕で聴き続けますが1。
そんな中、先日Twitter上で触れた某イスラーム関係財団の掲載している映像が、個人的にはものすごい勇気づけられるものでした。
“Deen Tight” Documentary – Tabah Media – Tabah Foundation
アメリカのヒップホップカルチャーの中で生きるイスラームで、ムハッジャバの女の子がDJまでやっています。
これについても大いに意見が分かれるでしょうが、わたしの中でのイスラームのイメージにはピッタリくるし、誰が何と言おうと断固支持します。
もう一つ素敵なお話として、「イスラームと音楽」問題について、お世話になっているエジプト人女史と話題になった時、彼女が面白いことを教えてくれました。
アル=シャアラーウィー師محمد متولي الشعراويが、こんな内容のことを仰ったそうです。「それがあなたにとってハラームなら、ハラームだ」。
どういうことかというと、同じ音楽を聞いても、そこから欲望を刺激され、心を弱めてしまう人もいれば、別に何ともない人がいます。極端な話、アラビア語で反イスラーム的内容が歌われていたとしても、アラビア語も分からずアラブ・ポップスにも興味のない人間が聞けば、別段何の影響も受けません。要するに、ハラームかどうかの最終的な監督者はあなた自身だ、ということです。この考え方は、音楽に限らず非常に重要で示唆に富んでいます。
もちろん、聖典中で明白に規定されているものや、ウンマの総意が一致を見ているものについては、議論の余地もないでしょう。誰がどう見てもハラーム、あるいはハラール、というものもあります。
一方で、様々な分野で意見が分かれているものや、常識的に考えて「そんな重箱の隅をつつくようなことが大切なのか」と疑問に思われるものもあります。そういうものに出会って、判断に迷った時、アル=シャアラーウィー師のこの言葉は大きな導きになると思います。
強迫神経症まがいのハラーム探しに耽溺されているムスリムが、日本に限らずしばしば見られますし、「最終的に自分で判断するなら好き勝手がまかり通ってしまう」と考える向きもあるでしょうが、シャリーアとは、手取り足取り何でも決めてくれて、それに乗っかっていれば判断停止しても清く正しく生きていける、というものではないでしょう。むしろ、我々が「悪く」もあり得る存在として創造されていることが、現世を与えられている意味なのではないかと考えます。
同女史が、もう一つ面白いことを言ってくれました。「ヒジュラで預言者様صがマディーナに入った時、皆が歌を歌って出迎えた、という話がある。歌自体がハラームなら、そんなことはあり得ないだろう」。
わたしも彼女も別段法学者でも何でもありませんから、イスラーム的権威は微塵もありませんが、なかなか説得力のある指摘です。
ちなみに、その歌というのはこういうものです。
طلع البدر علينا من ثنيات الوداع…وجب الشكر علينا ما دعا لله داع
أيها المبعوث فينا جئت بالأمر المطاع…جئت شرفت المدينة مرحبا يا خير داع
動画があったので貼っておきます。
もう一つおまけに、ماهر زينという在米レバノン人(多分)歌手の歌を貼っておきます。英語です。これはちょっとお行儀が良すぎて個人的な趣味ズバリではないのですが、この手の音楽の中では割合に聞ける方だと思います。