「不自由」論―「何でも自己決定」の限界 (ちくま新書) 仲正 昌樹 筑摩書房 2003-09 |
本書のテーマは、プロローグの以下の下りに示されている通りです。
現実には極めて限定的・暫定的なものでしかありえない”自由な主体性”を、すべての人間に普遍的に備わっている共通項であるかのように考えるのは、かなり無理がある。しかしながら、ホッブス以降、「自由な主体」間に「自然に」生まれてくる「普遍的合意」(=契約)という過程の上に成り立ってきた近代社会は、自らの拠って立つ基板がフィクションであると認めることはできない。
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近代的な「自由な主体」の「限界」を振り返りながら、ポスト・モダン状況の中で、”とりあえず”どういう態度を取ったらいいのかというのが、本書の主題である。
「自由」な判断の主体として想定される、臆見や抑圧を剥ぎ取った後に残る「人間」なるものが、極めてフィクショナルであり、かつ正にこの「人間性」が、ある種の「野蛮」に繋がる、という逆説を抉出していきます。新書という形態上、あまり突っ込んだ議論はされていませんが、近代政治・社会思想の概説書としても優れています。
特に面白かったのは、本書末尾にあった以下の下り。
精神分析的な視点からの近代家族史研究家であるエリ・ザレツキーは、「自己決定」を特徴とする近代的「主体性」は、実は西欧人の「気のみじかさ short-temperendness」の現れだ、という面白い指摘をしている。つまり、人間は様々な状況の中で、外から与えられる刺激に対してはそれなりに反応しているわけだが、刺激と反応の間の時間的間隔が短ければ主体的に「決断」しているように見え、長ければ主体性がなくてぐずぐずしているように見えるわけである。実際にその人物の「内面」でどのような判断のプロセスがあったかは、「外」からは直接的に知ることはできないので、周りの人々は、「(他者からの介入を受けることなく)早く判断に至った」という外見だけを頼りに、その人物の「主体性」を事後的に再構成することになるわけである。その意味で、「主体性」とは「気短さ」に対して後から(エクリチュール的に)取って付けられた明証である、ということになる。
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「自己」をめぐる諸関係性のネットワークを視野に入れ、「決断」の際の選択肢によって、それらの関係性がどう変化するかシミュレーションしていたら、なかなか「自分だけで」決めるということはできない。むしろ、自分で決められる部分はごく少ないことが分かってくるはずである。
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しかしながら、そうした「自己」を取り巻く関係性についての複雑な思考の流れは、回転効率を重視する資本主義的な生産体制に貫かれている「近代」においては、軽視されがちである。むしろ、邪魔である。
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近代的な「主体性」は、そのように気短に短縮された関係性の中で、姿を現してくる。(・・・)我々は、「自由な主体」で有らなければならない、という極めて”不自由”な状態に置かれているのである。
「気短さ」という時間的視点は新鮮です。ただ、これをあまりイージーに「特殊西洋的」で「資本主義的」としてしまうのは、少し危険かな、と思いますが・・。
どちらかというと、「お前」と呼びかけられてうっかり振り向いてしまう限りにおいて主体が成立する、という風に読めそうです。ただ、ゆっくり振り向くと、意外に見つからない。熊と遭遇した時の対処法のようです(笑)。
呼びかけに対し振り向く限りにおける主体、ということは、主体以前に呼びかけがあり、主体は常に既に特定の呼びかけに紐付けられているわけです。主体が、その存立自体においてsubject(主体=臣下)である、ということが、ここからも言えるでしょう。