Categories: 信仰メモ

倫理的未完了

 中田考先生の某所での発言を見て、以下のテクストを拝読したら、非常に面白かったです。

規範と存在ーイブン・タイミーヤ神学の言語的基礎ー

 前にも見た気がしないでもないのですが、アルツなので右から左に抜けていたようです。フサイニー師「イスラーム神学50の教理」を読んだタイミングだったので、非常に頭がすっきりしました。
 
 自分用に強引にまとめると(例によって自己流ですので、間違っていたらごめんなさい)、イブン・タイミーヤにおいては、

・タウヒードのニ分類
主性に於けるタウヒード:アッラーが唯一の創造者であるとの認識
神性に於けるタウヒード:アッラー唯一者のみに崇拝を帰すこと

・アッラーの意志のニ分類
存在意思 الإرادة الكونية:意志即実在となる意志
規範意思 الإرادة الشرعية:即存在とはならないが望ましいものに対する意志、倫理的意志

・主性に於けるタウヒードはイスラーム以前からも存在する考えで、イスラームの使信の本質は神性に於けるタウヒードにある。
・神性に於けるタウヒードの実現には、何が人間に要求されているのか理解されなければならない。それは存在意志ではなく規範意志の問題である。
・そして、予定を認めることが即素朴決定論(「悪いことをしたのもアッラーが決めた運命なのだからわたしのせいじゃない」)とならないのは、以下の立場による。

そして世界に生起する事象が、自らの力を越えるものとして「予定」と言われねばならないのに対し、自己の行為に対しては、それを「予定」と言うことは出来ない。それは人間の行為が、アッラーの「存在」意思のみならず「規範」意思の対象であるという意味において、規範関与的事象として他の事象から存在論的に区別されることに基づく。しかしイブン・タイミーヤは「人間の行為がアッラーの『予定』ではない」、と言うわけではない。彼は「自己の行為を『予定』と呼んではならない」と言うのである。つまり「予定、シャリーア」問題は純理論的問題、即ち「叙述文」で表現される問題ではないため、実践的に解決せねばならない、即ち「要求法」の形で解決が与えられねばならないからである(下線引用者)

 ここで強調されているのは、信仰において決定的なのが(叙述的世界解釈ではなく)倫理的水準、あるいは法的水準だということです。
 
 非常に面白いのです。
 ここから先はわたしの勝手な展開ですが、自由意志は倫理的水準においてのみ成立する、とも言い換えられるでしょう。あるいは「時間差」とも言えます。
 「常に既に予定」ではあるのですが、倫理的要請として、わたしたちは行為の前の時点、つまり「自由を留保されていると想定される時点」において、語らなければならない。常に「それは予定(運命)であった」のですが、「定めであった」と振り返ることが許されるものと許されないものがある、ということです。たとえ過ぎ去ったものであっても、ある過去の一時点から、過去における未来として行為を語ることが要求される、そういう領域があり、そこにのみ自由がある、と言えます。あるいは、自由は時制の制御において成立する。

 さらに進めると、これはちょっと涜神的なので少し発言が憚られるのですが、もしすべての意志が即座に実現するとしたら(すべてが存在意志)、神に自由はないのではないか、という、割と伝統的な議論があります。実際に自分の意志が即実現すると想像して頂くとすぐわかりますが、意志が存在と直結しているとしたら、逆説的にもわたしたちには自由を行使する猶予がなくなってしまいます。自由というのは、単に何かが「できる」という意味ではなく、「隙間」のようなものを必要とするものです。もし神様が全然「隙間」のない存在なら、奇妙なことに自由がないのでは、というお話があるわけです。
 タイミーヤの議論で面白いのは、アッラーにおいても意志に二つの段階があり、言わば「時制の差」のような関係を成している、ということです。奇妙な言い方ですが、ここにアッラーの「自由」がある。正確には、わたしたちにはそこに「自由」があるように見える(アッラーご自身にとっては自由かどうかは多分問題ではない)。
 アッラーはいつでも存在意志において意志を発動することができたのでしょう。神とは、すべてを過去として語れる者です。
 にもかかわらず、しなかった。それは「神における自由」とも言えるし、あるいはまた、わたしたちの目線から見て、つまり、わたしたちにとってアッラーの存在意志と規範意志が「弁別できてしまう」という、感覚の水準において、アッラーは自由であるように「見える」。
 「にもかかわらず、しなかった」というのは、わたしたちという時間内存在の目線からの判断で、アッラーにとってはすべてが完了しているはずです。定めを定めとして決定できるということは、すべてを「完了したもの」として眺めている、ということです。
 しかし重要なのは、わたしたちにとって、そこに時間差があるように認識できてしまう、ということで、これと倫理的水準=自由と法の成り立つ領域が存在する、ということはパラレルなのです。
 
 わたしにとっては、この問題は時間、もっと言えば時制という言語的視点で考えるとスッキリします。完了/未完了として読み替えると、一番分かりやすいように思います。
 「自己の行為を『予定』と呼んではならない」というのは、言わば「未完了で語れ」ということです。何かが依然進行している。その進行しているものというのは、実際上は終わっていることかもしれません。كان يفعلみたいな状態です。だからこれは、過去・現在・未来と一直線に伸びていくタイムラインの問題ではなく、ある運動にとって相対的に「完了しているか、していなか」ということです1。信仰実践とは、アッラーにおいて完了しているものを、未完了の立場で引き受けるところにある、ということでしょう。
 
 すべては完了しているが、何かがまだ終わっていない。ただ、わたしに課せられた義務としての自由においてのみ、「倫理的に完了していない」。

  1. ここが「完了/未完了」という考え方の面白いところで、完了/未完了というのは、過去・現在・未来というタイムラインとは別の次元において区別されるものです。しばしば「時間軸の明瞭なヘレニズムと不明瞭なヘブライズム」のような対比が語られますが、ヘブライズムと同根のセム的思想において中心にある時間観は、絶対的な器としての時間ではなく、事物の本性との関係で相対的に完了しているか、展開中か、という時間なのでしょう。 []
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