以下のメモは、宗教に無関心な人ばかりでなく、信仰のある方、イスラームの内部にいる方にも、不快感を与える可能性があります。少なくとも、極普通の信徒が集まる場で、わたしはこのような発言を控えます。ですから、本当に限られた方に対してちょっと甘えて本音を書いている、という前提で眺めてやって下さい。
わたしはイスラームの信徒ですが、おそらく本質的には、「完全な無神論者」になりたい(なりたかった)のです。
かなりメチャクチャなことを言っています。
まず大前提として、多くの日本人、正確に言えば一定の教養がある日本人たちにとっての宗教、というものを考えてみます。彼らの多くは、宗教A、宗教B、宗教Cというものが「対象」として並んでいる、という見方をするでしょう。だから宗教を「選ぶ」と考えます。逆に言えば、何も選ばなければ、デフォルトで「無宗教」になる、そんな風に考えているのではないでしょうか。
しかし、「放っておいたら無宗教」というモデルは、妥当ではありません。少なくともそれは、「完全な無宗教」ではありません。
これを宗教と呼んで良いのかわかりませんが、広義の宗教的なるものというのは満遍なく偏在していて、完全に無縁という状態には放っておいたらなりません。「宗教」は言語に織り込まれていて、その言語は常に政治的であり、「わたし」が言語的存在として振り向いた瞬間から、わたしたちは十分「宗教的」です。
第一段階として、この事に気づかなければなりません。
これは、「何らかの文化的背景によりわたしたちは常に汚染されている」ということではありません。そういう意味も勿論ありますし、そこを考えるのはとても意義のあることですが、より深い所で既に介入は行われていて、価値判断なしにわたしたちは事実というものにコミットできません。むしろ価値を剥ぎ取った対象そのもの、という概念が、倫理の後で成立した仮構なのです。
そう考えて尚「完全なる無神論」を思考しようとしたら、極めて逆説的ですが、宗教の中から無神論を探さなければなりません。ストルガツキーが『ストーカー』の冒頭でロバート・P・ウォーレンのこんな言葉をひいています。「君は悪から善をつくるべきだ、それ以外に方法がないのだから」。
この過程には、多くの場合理神論的試みが含まれますが、何度か書いた通り、理神論だけでは終わりません。
といっても、「イスラームが最も完全なる無神論に近い信仰である」と言いたいのではありません。そういう気持ちは、本当はちょっとあるのですが(笑)、それを言っては結局宗教を「選ぶ」立場と変わらなくなります。「イスラーム素晴らしいよ、だからムスリムになろう!」ってそんな話じゃないのです。ですから、いかなる信仰においても同様の試みは可能なのかもしれませんが、既にイスラームの中にいて、そしてイスラームの中からしか考えられない、というのが、より正確なところでしょう。「もう巻き込まれちゃっているから巻かれながら何とかする」というのが大切なところです1。
このメモでおそらく一番意味不明に見えるのは、「選ばないことでは無神論者になれない」ということだろうと思います。これを疑問に思えれば、既に最初の一歩は踏み出しています(多分、その疑問すらわかない人も沢山いる)。「なぜだろう」と考える営みから、信仰のプロセスがもう始まっています。もちろん、これだけで終わるわけはありませんが。
例によって恋愛にひきつけて考えてみるなら、結婚生活の中で愛をはぐくむようなものであって、結婚してしまうということは、何かを捨てるという面もあって、結婚していない状態そのものは二度と回復できないのですが、中に入らないと外から見た風景もキチンと認識できない、ということがあるのです。しかも、結婚という扉を前に悩んでいる人は、多分そのずっとずっと前に、結婚が抜き難く打ち込まれた世界の扉を、とっくにくぐってしまっているのです2。
確かに慎重さは必要です。でも、どんなに慎重になっても、もう入っちゃっているものはあるし、心配しないでも十分手遅れですから、走りながら銃を撃つように考え生きていくしかないんじゃないのかな、と思っています。