表現という言葉を奇妙に感じていました。
まず「内側」に対象があり、それを「表出する」という印象があるからです。
この違和感はしばらく忘れていたのですが、ホイジンガが洞窟画を見て、労働から遊びの段階を獲得したものとして、人類をホモ・ルーデンス(遊ぶ人)と言った、という話を聞いて、思い出しました。
そもそも、労働の段階に加え遊びの段階を獲得する、という発想が逆転していて、労働なんて一番最後に生まれたものでしょう。子供だって最初は遊んでいて、大人になって初めて労働するのであって、人によっては大人になっても遊んでいます(笑)。
動物や古代人が行っているのは、労働などという重苦しいものではなく、わたしたちが遊びに夢中になっている時のような、行為との一体化でしょう。
わたしはかつて動画を扱ったりモノを書いたりしていて、今でも落書きを描いたり写真を撮るのに夢中ですが、そういう活動が楽しいのは、すっかり「そっち側」に行って「わたし」がいなくなるからです。これは新たに獲得した認識の様式ではなく、むしろ最初はこの「夢中」しかなく、「夢中」が減速してつまらなくなったところで、はっと「わたし」が目を覚ましたのです。ですから、モノを作るというのは、以前の状態への回帰であって、労働の次なる段階の獲得などというセコイものではありません。
「表現」という言葉がしっくりこないのは、一番後に出てきた「私の中の小人」が「表出」を行っているかのような語感があるからです。expressですから、外に出すものです。「表現する」という日本語も、基本的には他動詞的であって、「何か」を表すものです。
しかし、「表現」と言われている(言われるに成り果てた)活動というのは、自動詞的だから面白いのであって、「何か」とか「どこから」というのは二の次です。「描きたいものを描け」などとうのは嘘に決まっていて、せいぜいのところ、描きたいから描くものを探すのであって、一番良いのは単に描いている、という状態です。
外に出すのではなく、外が入ってきて「わたし」になったのであって、古代人だって洞窟に動物を描いていて初めて、動物を知っているわたしを見つけたはずです。いや、最後までそっちは発見しないまま、ただ描いていたのかもしれません。
まぁ、「労働」的な発想や、起点としての「(欲望し責任ある)個人」という考え方にすっかり毒されてしまった人間としては、一旦「表現」という表現(!)を媒介した方が分かりやすい、というのも一理ありますが。
と、思い出してみると、この問題意識自体はすごくナイーヴで幼稚ですね。幼稚すぎるので忘れていたのだと思いますが、基本的な考え方は変わっていない、進歩していないようです。とりあえず個人的には、依然「労働」な頭を獲得できず、一生獲得しそうもないので、幼稚なまま一生遊んでいる気もしますが。