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外面に内面を合わせよ

 左翼的なもの、あるいは「社民的なもの」は、「言行一致させる」倫理かとぼんやり思っていたら、近しい人に「むしろ逆だろう」と指摘されました1
 「小林よしのりくらいから、『みんな本当は朝鮮人嫌いなんだろう?』といった開き直りが始まり、一方で左翼は言葉を立てなければいけないと抵抗しているのではないか」という内容。
 確かにこれは言えるし、こうした「一致」には抵抗しなければなりません。
 しかし、この「一致」に対して社民的な抵抗をしてしまうと、PC的な方向へ向かってしまい、これはわたしの言いたい「言うべきことを言う」、つまり言行「一致」に対して言を「立てる」ことの意義とは異なるものになります。
 
 飛躍するようですが、ここでふと思い出したのが、中田考先生のスーフィズムについての言及です。
 「ワッハーブ的なものが戒律などの『外面』を優先させるのに対し、スーフィズムは『内面』を重視する、といった説明がよく見られるが、それは間違いだ。スーフィズムは『外面』を立てた上で、『外面』の方に『内面』を合わせるのだ」といった指摘です。
 これは非常に面白い。
 スーフィズムに「内面」的なものを投影するのは、非常に西欧的なバイアスによる見方であって、いわゆる「先進国」的世俗的世界観に引き付けて考えることです。なぜそうした見方がされるのかというと、世俗化・物質化した社会では、「言」の向こうにある「実体」、「外面」の向こうにある「内面」、こちらの方が「本質」であり重要だと思われているからです。
 ついでながら、ここでの「内面」はカント「もの自体」のように手が届かず、一致の努力は無限背進に陥ります。逆に言えば、「内面」こそ最後の砦として保証されるのです。一番大事なものには手が届かないから、逆に内面が空っぽでも許される。そういう欺瞞があります。
 そして、「内面」に漸近しようと永遠の階梯を走り続けようとする姿は、個人主義的な世界観、永遠の「成長」を生きようとする資本主義とパラレルな関係にあります。
 
 「内面」の方が大事だとしたら、「言行一致」させるとするなら、「行」の方に「言」を合わせる、という発想になります。現代日本で言えばネトウヨ的開き直り、チープな自称右翼(わたしはこれを右翼とは認めない)の思考様式もこれですが、以上のように考えると、この方法論は実は非常に特殊西欧的なものに汚染されていて、西洋から逆輸入されたアラブ・ナショナリズムのように倒錯的です(おそらくイギリスがオスマン・トルコに対抗するものとしてアラブ民族主義を「発明」した)。
 絶対的な第三者を立てる「言うべきことを言う」倫理は、これとは異なります。そこでは「言」と「行」の分離以前に、とにかく「言」を立てることが第一義だからです。
 
 最初にあるのは「内面」ではなく「外面」です。
 そして、両者を一致させるなら、「内面」を「外面」に合わせる。
 これが「言を立てる」ということであり、絶対的第三者を立てるということです。
 
 イスラームのたとえで言うなら、まず「外面」を重んじるワッハーブ的なものがあり、その対立としてではなく、むしろ極めたものとしてスーフィズム的なものが来る、という見方です(念のためですが、このワッハーブとスーフィズムの使い方は、例示のために便宜上模式化したもので、正確なものではまったくありません)。
 ですから、現代日本に見られような自称「右翼」的なものは、まったく言を立てられていないし、真の保守主義でもない。
 わたしたちは「極右」でなければなりません。つまり、「外面」に「内面」を合わせるという、スーフィズム的ラディカルさが必要なのです。
 
 この方法の非常に良いところは、たとえ「内面」が完全に「外面」に一致しなくても、少なくとも「外面」はできている、ということです。だから60点は60点なりの結果が出せる。これが「退屈な革命」に対して信仰や真の保守主義の良いところです。
 革命は100点取らないと0点です。これは大変辛い。普通の人には無理です。信仰は誰にでもできます。
 
 もっと言ってしまえば、「外面」と「内面」が一致していないなら、「外面」として出てきているところまでが、その人の「本質」なのです。だから、ここには無限背進のディレンマはありません。60点は100点満点の60点ではなく、60点満点の60点になります。誰もその裏を読んだりしない。
 これは森田療法などの行動療法の考え方にも通じます。まず「外面」。この「外面」をとにかく徹底する。できない約束でもする。外に出る部分からキッチリ作る。
 「内面」も伴っていればなお宜しいですが、そこはとりあえず保留です。むしろ考えてはいけない。「内面」を覗き込むと合わせ鏡の地獄に陥りますから、見てはいけない。
 「外面だけで中は空っぽ」でも構いません。中なんかどうせ見えないのですから、外に出ている分がその人のすべてです。もっと言ってしまえば、中なんかみんな空っぽです。空っぽの場所に「本質」を見つけようとするのが、自我肥大と資本主義のトリックなのです。
 
 更なる連想ですが、誰だったか論者を失念してしまったのですが、明治の言文一致運動を批判して「話し言葉を書き言葉に合わせるべきだった」と言った人がいました。非常にラディカルです。
 しかし、わたしたちはこれをやらなければなりません。しかもできるのです。外に合わせて語っているところまでがその人のすべて、フスハーで言えるところまでが思想のすべて、と考えてしまえば良いのですから。
 
 言を立てるには、開き直りと思い切りが必要ですが、それはヨトウヨ的な開き直りとは逆です。「神を信じる」と言い、どんなに批判され突っ込まれても「本当に信じている!」と言い張り続けることです。そのうち本当に信心が芽生えるので大丈夫です。
 
 わたしたちは、自我に汚染された自称「右翼」思想とも、「社民的なるもの」とも異なる道を選ばなければなりません。
 それは、いかなる跳躍も構わずまず「外面」を立てる可能なるラディカリズムの道です。

  1. 「「言行一致させる」倫理と「言うべきことを言う」倫理を区別しなければならない」参照 []
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