すべてに意味があるなら、すべての意味を知っている者に一任してしまえば、わたしたちは安心して無意味を享受できる。
「すべてに意味がある」。これがドライブの根源であり、分裂病的知性、つまり知性そのものの源泉にある。「すべてに意味がある」のではないなら、わたしたちは、エデンから出る必要もなかった。
一方で、「意味のあるものが少なくとも一つ存在する」と、神経症的に振舞うこともできる。
この方法でも、わたしたちは無意味を享受できる、つまり言語を言語として使うことができるし、その言語経済の内部に習熟する、すなわち言語に十分に感染されれば、「すべては無意味である」と言語の内部で嘯くこともできる。
もちろん、「すべては無意味である」という言明は、言語感染の高度に進んだ段階で初めて口にできる戯言であって、その背後には、必ず隠蔽された「少なくとも一つの意味」がある。「すべては無意味である」という者は、「意味のあるものが少なくとも一つ存在する」ことを上手く忘れられただけである。
つまり、ファンタジーが極めてよく機能している。
また一方で、「すべてが無意味なわけではない」とも言える。
ここでは、意味は限定されていない。正確には、意味のある場は限定されていない。意味が予想される地点は、地平線を越えて無限定に広がっているが、隠されているわけではない。「見える地平」と「見えない地平」という文節が、ここでは働いていないからだ。
見渡す限り無意味に満たされていたとしても、依然として、意味は特に隠されていない。
意味はあってもなくても、誰も焦って走り出したりしない。
すべての意味を知る者が存在し、意味がそこで十分に消費されていることは、「すべてに意味がある」でも、「意味のあるものが少なくとも一つ存在する」でも、それぞれの仕方で巧みに機能する。
だから、人間は神様と併せて一つなのだ。
ところで、残りがある。「すべてが無意味なわけではない」。
彼・彼女たちにとって、神様はあってもなくても良い存在だ。驚くべきことに、この人々は、神様が存在しても存在しなくても、同じように振舞う。
しかし、「すべてが無意味なわけではない」ことは、「すべてに意味がある」「意味のあるものが少なくとも一つ存在する」の前提があって初めて成立する。
彼・彼女たちは、いささか言語に対して「出遅れている」が、言語の外部にいるわけではない。
人間と神様は併せて一つだが、人間たちは一つではなく、個人は一つではない。