最近ネット界隈で、レイプゲームを巡り「表現の自由」といった言葉が使われるのを目にする。
レイプゲームそのもの、というよりゲームについては、わたしはよく知らないし正直あまり興味もない。「政治的に正しい」言説により法的規制が濫用されることは危惧するが、この問題プロパーについては、何も言えることがない。
気になるのは「表現の自由」あるいは「言論の自由」という語の使い方だ。
もしそれが、「たかが言葉(あるいは表現)じゃないか、本当にやるわけではない」というつもりで使われているのなら、とんでもない誤りだ。
「たかが言葉」として自由を謳うなら、その者は自らの自由を手放すことになる。
言葉とフィクショナルなものは、現実と一体だ。フィクショナルなものと現実的なものは、合わせて一つなのだ。
嘘をつけないものは、言語ではない。
だから「たかが言葉」ではない。言葉は力だ。
もちろん、その力は、わたしたちに憑依した亡霊のようなものの力で、必ずしも発話者の意図通りに力が発揮されるわけではない。わたしたちは言葉の力に翻弄されている。そのようなものとして、世界に呼び出された。
言葉は力であり、「表現の自由」とは、武器を持つ自由のことだ。
その武器は人を傷つけるかもしれないし、自分を傷つけるかもしれない。それをおいてなお、武器を持つことが譲れないからこそ、「表現の自由」と言うのだ。「たかが言葉」なら、そんな自由は要らない。
神は言う。「我は人間を創った、我にかしずく者として」。わたしたちは、生まれながらにして「言葉の奴隷」だ。そもそもの始まりから、言語に憑依されている。
言葉は力であり、その力はわたしたちの意思を越えているが、わたしたちは与えられた武器から自由になれない。
その武器を自らの武器として認め、回収する、それが「表現の自由」ということだ。望みもしないものを与えられてしまっていることを認めることを含めて、わたしたちは神の奴隷である。
軽々に「表現の自由」を言う者にその覚悟があるのか。
あなたは十分に武装しているし、その武装は解除できない。武器を持て。そして有限の生を生きよ。