ホロコースト産業―同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち Norman G. Finkelstein 立木 勝 三交社 2004-12 |
両親共に強制収容所の生き残りであるユダヤ人による、「ホロコースト産業」の告発。
「ホロコーストはなかった」などというトンデモ系の主張ではありません。「ユダヤ人の」ホロコーストが(ナチスの強制収容所にいたのは別にユダヤ人だけではない)恣意的に特別な形で取り出され、一部の在米ユダヤ人組織によって「たかり」の材料にされている、ということです。
重要なのは、実際のホロコースト、つまり「一般的ホロコースト」(そうしたことは、残念ながら地理・歴史的な多くの場所に見いだせる)と、抽象され聖化された「ザ・ホロコースト」なる神話を区別することです。
第二次世界大戦の余韻が残っていた時期、ナチ・ホロコーストはユダヤ人だけの事件とは考えられていなかったし、ましてや歴史的に唯一無二の事件という役割をあたえられてなどいなかった。組織的アメリカ・ユダヤは、むしろこれを普遍的な文脈に位置づけることに腐心していた。ところが六月戦争後、ナチの最終的解決の枠組みに過激な変化が起こった。ジェイコブ・ネウスナーは当時を振り返り「一九六七年戦争以後に登場し、アメリカのユダヤ思想を象徴するものとなった主張がいくつかあるうちで、最初の、そしてもっとも重要なもの」は、「ホロコーストは…人類史上に比べるもののない唯一無二のもの」という主張だった、と述べている。また歴史家デイヴィッド・スタナードはその啓発的な論文で、「ホロコースト聖人伝作家の小規模産業が、神学的熱狂者の精力と創意を総動員して、ユダヤ人の経験は唯一無二のものだと言い張っていた」と嘲笑している。要するに、唯一無二のものという教義は意味をなさないのである。
根本的に言えば、あらゆる歴史的事件はどれも唯一無二であって、少なくとも時間と場所はすべて違っている。またすべての歴史的事件には、他の事件とは違う固有の特徴もあれば共通する点もある。ザ・ホロコーストの異様さは、その唯一性を無条件で決定的なものとしていることだ。無条件の唯一性のみを持った歴史的事件などあるだろうか。概してザ・ホロコーストについては、この事件を他のできごととまったく違う範疇に位置づけるために、固有の特徴ばかりが取り上げられている。しかし、他の事件と共通する多くの特徴が瑣末なものと認識されなければならない理由は、決して明らかにされない。
ホロコーストの唯一性を主張することは、ユダヤ人の唯一性を主張することになる。ユダヤ人の苦しみではなく、ユダヤ人が苦しんだということが、ザ・ホロコーストを唯一無二のものにする。言いかえれば、ザ・ホロコーストが特別なのはユダヤ人が特別だから、ということだ。
イスラエルの優位確立後、つまり中東におけるイスラエルの利用価値が十分確認された後にこの「ビジネス」が始まったことが、「ザ・ホロコースト」の欺瞞性の何よりの証左です。
ホロコースト産業は、イスラエルが圧倒的な軍事的優位を誇示した後になって発生し、イスラエルが勝利に意気揚揚とするなかで花開いたのである。
本書中では、本当の生還者には驚くほど補償が還元されていないこと、「生還者」の数が恣意的に水増しされていること(年々増える生還者!)、などが激しい口調で示されてます。
母はよく言ったものだ。「生還者だという人たちが全部本物だったら、ヒトラーはいったい誰を殺したのかしらね」。
論調が余りに激しすぎ、せっかくの重要な論点がかえって胡散臭く見えてしまっているのが難点ですが、「二つのホロコースト」という、ことにパレスチナを巡ってホロコーストを考える際、非常に有用でかつ忘れてはならない点がわかりやすく示されていることは、評価されてしかるべきでしょう。わたしたちが否定しなければならないのは「ザ・ホロコースト」を盾にとったシオニストの屁理屈であって、「ホロコースト」(たとえばガザにおける!)ではありません。
ちなみに、本書には長大な「ペーパーバック版第一版へのあとがき」「第二版へのあとがき」が含まれていて、同じく「まえがき」と訳注を除くと、最初からの本文は全ページ数の半分以下になってしまう、というすごい構成になっています。「あとがき」としての増補分は、主に初版発行後の実際の「補償詐欺」の行方を記したものです。