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わからないものは放っておくしかないし、放ってきたことで自らの今がある

今朝、トマス・アクィナスについてのラジオ講義を聞きながらピザトーストを齧っていて、岩井克人が「資本主義は資本主義的価値に対して枠外のものがなければ成り立たない」といった内容を書いていたはずだ、とパートナーに話しかけると、「完全な統一理論を成り立たせようとすると崩壊するという脱構築的なもの」という説明が返ってきたのだけど、その時わたしが考えていたのは哲学と宗教の話で(トマス・アクィナスなのだから)、仏教もイスラームも哲学としての面と宗教としての面(そして政治としての面)があるが、哲学としての面を突き詰めればエリート主義的になり、宗教としての面を突き詰めれば反知性主義的になる。仏教でもイスラームでも(哲学としての)始原に帰れ、という運動はあり、まあ自分にある程度馴染みのあるイスラームで言えばサラフィー的なものだが、(سلف slfとは「先行する」で、単に「先に行ってて」みたいな意味でも「始祖」みたいなニュアンスでも使える)、こうした運動は純化されると「政治の哲学化」のような周転円的な無理が過激化するのが必定で、純粋になればなるほど結果として人間社会とは相容れなくなる。資本主義繋がりであるが、プロテスタンティズムなども同種であって、元祖プロテスタントは程々に揉まれて丸くなり「宗教」に収まったわけだが、その権化たるアメリカの振る舞いはご覧の通りで、福音派のようなパラノイア的態度も現れる。プロテスタントの教会は一般に簡素で実用本位だが、純化運動の施設は大抵合理的で、終末を信じて集団自殺したどこぞのカルトの建物もそんなだった記憶があるが、こうした「宗教っぽくない」宗教施設の極みがサティアンだ。では、サティアン的な価値観をベースとして「ゆとり」「彩り」とか言ってカトリック建築的なものを認容すれば良いのかというと、これもまた「統一理論」的な誤謬に陥っている。端的に「手の届かないものがある」「わけのわからないヤツがいる」しかないのだ。それを理解し一つの系に組み込もうとか、ガス室に詰め込んで最終解決しようとかすれば、結果として自らの足元を掘り崩すことになる。
わからないものは放っておくしかないし、放ってきたことで自らの今がある。

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