「for文無限ループURL投稿」について、某所に以下のようにポストしたところ、コメントから進展した話についてメモしておく。
「for文無限ループURL投稿」については、以下のニュース参照。
alertが無限に開く古典的なjavascriptによるイタズラを掲示板にコピー&ペーストした数名が家宅捜索を受け、うち一名の中学生が補導された、ということらしい。
不正プログラム書き込み疑い補導|NHK 兵庫県のニュース
あんまりこういうおじさんっぽいネタに口を出したくないのだけど、この件には心肝の冷えるのを覚えた。
大昔からあるただのjsのalertループ、しかも掲示板にコピペして家宅捜索。なんということだろうか。
コインハイブの件でもげっそりしたが、開発者マインドを削るとか萎縮させるとか、そんなレベルではない。
雨上がりの学校帰りに小学生が傘を柵に打ち付けて「カンカンカンカン!」ってやってたら逮捕、みたいな衝撃だ。
たぶん、関わるすべての人に悪意などなく、ただ粛々と仕事をした結果がこれなのだろうが、だからこそなにか、人ならぬものに飲み込まれていく恐怖に身が震える。
善良な人間には関係ない、か? 善良な人間を善良な人間が、正にその善良さによって地獄に落とすのだ。
以上の素朴な発言について、以下のようなコメントを頂戴した。
警官がくだんのリンクを踏んで迷惑をこうむったので私怨入って検挙……の方がまだマシな案件ですね。
わたしは同感であったので、とりあえず次のように返信してみた。
まったく、その方がまだ健全です。誰も得しないシステム的なものに切り刻まれていくのが非常に危ない。
が、一度立ち止まって、やはり言葉が足りないと感じた。
当初の「for文無限ループURL投稿」自体の問題からは随分ズレるが、以下を付記する。
「人ならぬシステム」の危険を指摘したからといって、そういうものすべてを否定するわけではない。人心の総意のよらない全体性というものは存在する。非常に漠然とした意味で信仰の領域に属するものだが、信仰とは人の営為の一オプションとして取捨選択できるものではなく、現実が既にフィクションを含みこむように、人間理性というものを成り立たせる裏面として常になくてはならないものだ。だからこそ「正しい信仰」というコードが多くの社会で人類学的に受け継がれてきたのである。
現下、このような世界観は嫌忌されるされる傾向にあるが、その近代的な人間主義を民主主義と呼ばれるものが下支えしている。民主主義は本来「最悪の中では最善」の予防ネットのような方法に過ぎないが、おそらくは政治的な事情でイデオロギー化した結果、方法論の周りに大きな膜のような曖昧な思想が纏い付いている。個が集まって全体を成す、全体は個に還元可能である、というモデルがそれだ。一人一個の判断力と理性を備えた個が集まって全体を決する、というイメージが、とりあえずの「お約束」として人々の間を回っている。
このお約束は現代社会を支える共通のフィクションとしてはそれなりに機能しており、一応の約束に従う形で「お上品」な世界を保つ上では大いに有効だろう。しかし一方で、お約束はお約束に過ぎない。約束と実際、二つ合わせて世界なのだが、あまりにお約束が完成されてくると、お約束を世界それ自体と勘違いする人々が現れる。虚実相俟った微妙な塩梅を解さず、言葉面だけなら反論しようのない正論を振りかざし、機械的に約束を適応しようとするモンスターだ。
昨今指摘されるPCの暴走もこの類であろうし、サウード家支配とワッハーブ派という、本来相容れない筈の(つまり虚実相俟った矛盾する)体制から一部異端的なイスラーム過激派が生まれたことも、同様に考えることができるのではないか。
今回の「for文無限ループURL投稿」の件についても、制度・法的な問題、あるいは行政という運用レベルの問題を指摘することは可能であるし、大いにすべきで、且つ有効だろう。
しかし一方で、それはシステム自体の本性における悪を問うものではなく、また単に強度の過ぎることを糾するものでもない。正確には、後者については指摘する価値があり、また正にそのような「行き過ぎ」に対する予防ネットとしてこそ民主主義は正しく機能するのだが、それはそれとして、「正しい神をもって悪しき神を律す」という方向がなければならない。神なんて要らない、では済まないのだ。
おそらくこの最後の一点こそが、このような問題について多くの正しい知見を供する知的リベラル層に一番欠けていることではないのか。
敬虔さだけが足りない。
余談ながら、このような「暴走」がしばしばオルタナティヴから発していることは注目に値うだろう。
ワッハーブ派にしたところで本流からは外れたところである種の知的徹底として生まれたものであるし、オウムなどは典型的にオルタナティヴであった。
さらに昨今のPC化した社会(ことわっておくが、PCそれ自体を否定するものではまったくない)、これも68年革命の「成功」として読める、ということは幾人かの論者が指摘するところだ。つまり68年を頂点とする左派的な(しかしその実、極めてナショナリズム的でもあった)ムーヴメントは、古き良き父の圧力に屈したわけではなく、一旦は挫折するものの、当時の若者、いわゆる団塊世代が成長するに従って、過激さを失い丸くなりながら、社会全体のムードとして結局成就しているのではないか、ということだ。実際、彼らの価値観に照らして、社会は概ね「良く」なったのではないかと思う。
問題は、そのような過程、歴史性が忘却、または隠蔽されたまま、結論の上澄みだけが機械的なコードとして暴力的に適応されてしまうことだ。
上で使った「敬虔さ」という概念は、民主主義とはまた別の方向、もしかすると逆の方向で、これに抑制をかけるものである。
久しぶりに関連する内容を書いたので、以下のリンクを貼っておく。ここから連なる形で書き殴ってある。
良い抵抗と悪い抵抗などというものはない