『ほんとうの環境問題』でも触れられている武田邦彦氏による『食糧がなくなる!本当に危ない環境問題 地球温暖化よりもっと深刻な現実』。
武田邦彦氏については、上のエントリでも触れた通り2000年の『リサイクル幻想』が好著で、それ以後『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』等で気炎をはいているのは知っていたのですが、何だか表現がドギつくなって、地球温暖化ヒステリーに対抗して熱くなりすぎている印象があり、あまり手にとっていませんでした。
本書には食の安全性や原子力、さらに「地震の危険」についての章まであるのですが、メインは食糧問題。というより、食糧問題以外の部分はオマケのようなもので、いささかチグハグ感もあり、切った方が良かったのではないかと思います。
飛躍した問題系が同居していることからもわかりますが、本書は武田氏が「言いたい放題」した感があり、食糧問題についての記述は多くの部分で納得できるものの、論調や文体については、正直濃すぎて辟易もします。『リサイクル幻想』の頃はもっとクールだったのですが、エコ勢の勢いにいきり立ったのか、単に年をとってキャラが煮詰まったのか、ちょっと熱すぎる「憂国オヤジ」ぎみになっています。現在のエコに疑問を抱いている方についても、その辺のところは差し引いて読んであげた方が良いかと思います。
さて、「本当の環境問題」とは食糧問題である、というのが、タイトル通り本書の主題なのですが、問題は食料が石油によって作られている、ということです。この辺りは、この頃の「エコ」に疑念を抱いている諸氏には目新しいところはないでしょうが、要点は、
・現在の食糧生産は石油に支えられており、その石油も生産量のピークは過ぎ、確実に枯渇に向かっている
・バイオエタノールはカーボンニュートラルというが、穀類の生産にも石油が使われている
・米国は自国に油田を持ちながら石油を輸入し、資源を温存している
・バイオエタノールは、米国の「穀物による支配」の道具にすぎない
といったあたりです。
結局のところ、わたしたちは石油の外に一歩も出ていないのです。
ちなみに石油というと、槌田敦氏の『資源物理学入門』という非常に面白い本があります。槌田敦氏も叩かれるところからは多いの叩かれているようですが、「原子力文明は石油文明の一部である」という主張を論証している一冊です。原子力も石油があって始めて使える。もう何もかもが石油の釈迦の掌です。
食糧について、よく認識していなかったのが、クジラの問題。
捕鯨というと、ヨーロッパの動物愛護団体が振り回すエスノセントリックな議論ばかり目につき、「食べたってよいに決まっているけれど、食べないといられないものでもないし」くらいに思っていたのですが、考えてみればクジラだって魚を食べるのです。
あの大きな身体で、大変な距離を周遊しますから、クジラはものすごい大食漢。つまり、漁業資源において、クジラは人間のライバルという一面もあるわけです。
そのクジラを獲らないで増えるに任せる、ということは、それだけで人間の取り分を減らしていることになります。仮にクジラを食べないにしても、一定の割合で捕鯨してやった方が、漁業資源を確保できることになります。もちろん、獲った以上は骨の髄まで活用した方が好ましいでしょう。
さて、早くも余談になりますが、武田邦彦氏が再三批判しているリサイクル(缶を除く)について。
まったくの個人的経験ですが、以前にアルバイトでゴミ関係の仕事に従事し生ゴミや空き缶と戯れたことがあり、ゴミにだけは普通の人より少しだけ親しいです。単なる心情のレベルでではありますが、氏のペットボトルや空き缶についての指摘には、納得させられます。
ちなみに、わたしが働いていた当時、某自治体では「分別収集」したものを一緒に燃やす、ということは平気で行われていました。ペットボトルは構わないと思うのですが、缶まで焼却炉に放り込んでいたのには胸が痛みます。
また、氏の指摘する通り、アルミ缶についてはリサイクルが有効であり、ゴミ収集業者と空き缶集めのオジサンは競り合うような関係にあったのですが、多くの作業員はオジサンを「見てみぬフリ」して、民間リサイクルを許容していました。しかもこの「民間リサイクル」のオジサンは、自転車に山のように空き缶を乗せて運搬しており、ガソリンを燃やして収集していたわたしたちより遥かに「エコ」です。こうした鷹揚さも、ゴミ行政が厳しくなると許容されなくなって、結局「リサイクル推進で余計に資源を浪費」に陥るのでしょうか1。
また「できることならその場で燃やすのが一番」というのにも頷けます。ゴミ収集作業員は、一日に何度も住宅地とゴミ焼却場を往復するので、「ゴミを運ぶ」だけでどれだけガソリンを燃やしているか、ということを実感しています。ゴミ収集作業のほとんどの時間は「移動」です。生ゴミの回収を街中で行うとすると、4トン車で行っても30分も走ればいっぱいになります。4トンで回収するルートは2トンのルートより太い道で、その分沢山ゴミが出ているので、結局車の容量と回収時間はそんなに相関しません。ゴミの車をパッカー車と言い、カッコイイ仕掛けでゴミを押し込んでいくので、沢山ゴミが入ることだろう、とアルバイトを経験するまでは思っていたのですが、案外簡単に一杯になってしまいます。グルグル回る仕掛けはゴミを中に取り入れているだけで、別に圧縮はしていません。圧縮したら汁が沢山出て、住民からの苦情で大変でしょう。
ここから焼却場まで持っていくわけですが、市内に四箇所あった焼却場の最寄の場所でも、1時間くらいは余裕でかかります。ゴミ焼却炉は大抵市の境とか僻地にあるので、市街地との往復にはどうしても時間がかかります。オマケに山の上などに建っていることが多いので、燃料も余計に消費しているでしょう(この点、東京で各区に焼却場が建設されているのは非常に好ましいと思います)。
粗大ゴミについて、最近は有料のところがほとんどになりましたが、有料化することで回収の厳密性が要求されることになり、以前のように「粗大ゴミのテレビを拾って帰る」ようなことが難しくなりました。有料化以前は、ゴミ収集業者としても「ないならないでいいか」で済ませていたのですが、有料化されると、ちょっとした行き違いがクレームにつながるため、書類とつき合わせてキッチリ申し込まれた分だけ回収しないといけません。それが「民間リユース」の道を閉ざすことになってしまったのです。
養老孟司氏・池田清彦氏の『ほんとうの環境問題』では、粗大ゴミの回収料金をデポジットにしなければならない(そうでないと不法投棄を誘発するだけ)という点が指摘されていて、確かにデポジットの方が現状よりは良いと思うのですが、いよいよ「民間リユース」の道がピッチリと閉ざされてしまう、という難点もあります。パソコン等については、既にこのシステムで運用されていますよね(わたしも利用しました)。
余談に更に余談を重ねますが、本書のテーマである食糧問題についての記述は、読んでいてかなり怖くなります。
怖いことが書いてあるので当然ですが、怖さの質に覚えがあります。子供の頃に読んだ「ノストラダムスの大予言」っぽいのです。
ノストラダムスと比べられたら武田氏はカンカンでしょうが、ここで言いたいのは怖さの質の問題。本書の描写「熱すぎる」ということでしょうが、熱がこもり過ぎて描写がおどろおどろしいのです。この辺も、武田氏が批判を買いやすい一因だと思うのですが、せっかく良いことを言っていても、唾を飛ばしすぎてインチキくさくなっています。
Wikipediaの武田邦彦氏のページを拝見すると、ずいぶんボロクソに書かれていて、ほとんど「トンデモ」扱いです。
「文科の人間」としては、数字の是非を問うことはできないのですが、「倫理問題」化した環境ファンタジーに果敢に闘いを挑んでいる点だけでも、評価されてしかるべきと感じています。どちらかというと「武田シンパ」なのですが(笑)、同時に「トンデモ」という人もわかる、というか、武田氏が「トンデモ」にされている風景を興味深いと思っています2。
武田邦彦氏は、現状「エコ」批判の急先鋒ですから、叩く人がいるのは当然でしょう。地球温暖化については、疑義を呈している人は沢山いる、というより、少しもののわかった方なら、むしろ多数派が疑問を抱いているのではないかと思いますが、やはり武田氏は一歩抜きん出ています。
そうした批判で、データの真実性が問われるのも当たり前ですし、大いに議論して頂いたら良いかと思うのですが、ただ単に武田氏が目立つから「トンデモ」扱いされているのか、またデータを挙げて批判している人も、本当にデータの不誠実を訴えたいのか、疑わしいと感じます。
武田氏のデータが正しいかどうかは、知りません。ハッキリ言って、あんまり興味もありません。
ただ、彼が何となく「トンデモ」っぽい、というのは理解できます。熱すぎる描写、「科学科学」と連呼すること、確かにインチキくさいです(笑)。
データや理論が間違っている、というだけでは、「トンデモ」オーラは出ません。逆に、いくら正しくても「トンデモ」っぽいものは「トンデモ」っぽいです。
この「科学」の連呼が胡散臭さを醸し出す、というのはとても面白く、この点では「トンデモ」や「疑似科学」批判の人々も共通しています。対立しているのですから当然ですが、両者は「科学」という性感帯を巡っては共通項があるのです。もちろん、「科学」エロティシズムの当事者自身は、それが性感であるとは考えません。
そういえば「科学的社会主義」なんて言葉もありましたね・・。