これも言い尽くされたことなのだろうが、強者弱者といった幼稚な言葉遣いがいつから当たり前になったのだろう。おそらくこれも、最初は善意、または戦略的意図をもってものごとの一局面を切り取っただけのものだったのだろう。(小賢しい)左派が社会的弱者といった表現を使い始めた当初は、少なくともコンテクストが限定されていた。しかし一旦用語法が定着すると、言葉は無分別に境界を超え(グローバル!)、あたかももの自体であるかのように人々の口を渡り歩く。フラットな世界で、言葉はイマジネールなモノと一体化し、世界の限界であるかのように横暴に振る舞う。そして一旦イメージが固まってしまうと、その向こう側にあるものを見るのは容易ではない。わたしたちはいつも、イメージの内側、ホメオスタシスの環の中、城塞都市の内部でだけものを考えるし、そこに考えるという操作が入っていることにも気づかない。イメージを対象それ自体と錯覚することが平穏の源なのだから。結果、強者とか弱者とか、挙げ句の果てに勝ち組負け組などと言い出す。
これらを操作的に扱っている人も中にはいる。善意であれ悪意であれ、そこに起源への問いがあるだけ、言わされてしまっている人々よりはいくらかマシなのかもしれない。意図には意図で、愚昧よりなお不吉な小賢しさが付きまとうのだけれど。
全体のことについては何も言わないしかない。