カーネルサンダースが流れたりするものかで「思考の流れ」なる観念に対する疑義を示しているけれど、これはもちろん、世界の実相に対して誠実さを示す試みの一つである。「思考の流れ」なる観念自体は一つの物語に過ぎない、ということだ。もちろん、日常生活では共通の物語に則って慣用句を投げ合うことで会話が成り立ちはするのだけれど、ここで言葉を使えば使うほどわたしたちは少しずつ言語を裏切っている。
予定調和的会話に裏切りがあるとすれば、極度にタイトに洗練された数学的言語が誠実であるかと言えば、もちろんそんなことはなく、「筋道通った」言葉が尽くしているのは別の神であって、言語に即して言えばより一層の裏切りに他ならない。言うまでもなく、近代的理性とワンセットにされた論理的思考法など、人の言語の上澄みの上澄みでしかない。そんなものはここでは扱いもしない。
慣用句の投げ合いはそれよりは遥かに歴史の古いもので、おそらく言語の獲得と同じくらい古いものだけれど、その始まりから思考と言語の遊離を映している。馴れ合いのパロールは侵入してきた言語に対する無抵抗の表明であり、わたしたちを心地よいリズムと調和の中で眠らせるものだ。その間に言語ウィルスは十全にわたしたちを侵食し飼いならす。
「思考の流れ」なる概念が現れるのは、言語の侵入によって遡及的に発見された思考が、更なる侵入により完全に組み伏せられる、その直前においてである。
挿入されたものが、更に奥へと突き立てられる、その刹那に、潤滑剤のように投入されたのが「思考の流れ」だろう。
だからわたしたちは、流れとしての思考という観念に身を任せ、眠りへと戻ろうとするのだけれど、しかし、直前に知覚したはずのざらついた感触、痛みというものの中に、思考そのものを見なかったと言うことはできない。
そこには確かに思考があったのだ。
この思考を(既に十分に侵入してしまった)言語において再演しようとすれば、「思考の流れ」に筆を委ねてはならない。書くたびに生まれる「当然の流れ」、常識的に連想される生起の順序や様式に騙されてはいけない。バロウズがカットアップといった技法を用いたのは、この抵抗の一形態と言えるだろう。
抵抗は一種類ではないし、わたし個人にはわたしなりの技法があるが、いずれにせよ書くにつれ変容していく意識の状態をつぶさに観察しなければならない。自らの意識が今どのような状態にあるのか知るのは簡単なことではない。
常に他者が介入し、流れる思考が撹乱されること。寝言で会話するように言語が自律運動すること。変化する状況に対する「手遅れ」が言語の中に回帰すること。
特に最後のものが重要で、言語は常に「後の祭り」だ。正確には、常にどんぴしゃりを演じる後の祭りなのだ。これを炙り出すには、複数の遅れが併存し、それぞれの遅れの間に「遅れの時間差」があることを示せば良い。
他人の思考がわからないのと同じ程度に、自分自身の思考がわからないこと。それらがわかったと思われる時間に差異があること。