社会的な規範に盲従するのは愚かしく、人生を虚しくするものだ、という人びとは自らの内に備えた基準を過度に重んじていて独善的であり反社会的だ、というのは、彼らがその内に備えているという基準をかえって盲信していることで、実のところさほどの基準が内にあるわけでも何でもない、かもしれず、とはいえ、この「社会性を備えた人びと」の信じる社会的規範なるものも、我関せずの人びとが内に備えていると彼らの信じるところの基準ほどにいい加減なもので、別段規範というものが確たるものとしてどこかに書かれているわけではなく、つまるところ規範なるもの、言葉と物が張り付いたかのような、「わからなさ」の入る余地のないぴっちりとした世界観をまず立てるか否かということに分かれ目があるのであって、規範に沿うとか沿わないなどというのは二次的問題に過ぎない。
とはいえ世界に規範が存在しないかというと、そういうことではなく、そればかりか、個人のうちに規範を備えて延々と手を洗うが如くこれに殉ずる人びとすら実在することはするのだけれど、それはともかく、記述された規範が存在しないということと規範が存在しないことは別のことで、かといって、規範は存在するが確定できないとか、存在するけれど目に見えないとか、否定神学的に述べてお茶を濁したいわけでもなく、道端の目印を行きに見るのと帰りに見るのでは違って見えるように(そしてしばしば、その二つの違いゆえに人が道に迷うように)、規範はあると言えばあるのだけれど、あると言った時にはそのありようは既に通り過ぎてしまっていて、言うなれば、帰りに見るであろう風景を記憶するために行きのうちに振り返って目印を確認しておくようなもので、ただ散歩と違って人生には帰り道はないので、そこで振り返って覚えた風景には二度と出会わない。
そういう風に、規範はあるのだけれど、あったのだなぁ、と通り過ぎるばかりで、前を振り向いて見る風景はまたそれはそれで規範なきが如きわからなさを押し付けてくるもので、それはそれできちんと見ながら、ただ見えるがままに受け止め、右足左足と足の置く場所を決める必要があって、置き場所を決めるのは通り過ぎた風景を振り返って見る景色ではなく、まだ行きの方しか見ていない初めての風景である。
この風景というのは確かに、振り返って見た方の「帰りに見るであろう(が帰りはないので二度と見ない)風景」とまるで無関係ということはないのだから、見つけられた方の規範というものが何の役にも立たないわけではないし、また通り過ぎた規範と未だ見ざる規範、まだ発見されていない規範の関係性であるとか変化率であるとか、そのようなものを(処世術的に)計算する、という考えもまるで荒唐無稽というわけではないのだろうけれど、そうして微分して得られた「規範の法則」というか、規範の規範みたいなものが、果たしてわたしたちの歩く歩度を越えて先を行き、あたかも帰りに見るであろう風景を先取りして見るが如く導いてくれるかというと、たぶんそういうことはなくて、わたしたちの歩く速さは、その規範の規範だか規範の規範の規範だか、そういう種類のものよりは少しだけ速いし、またそれ以前により大切なこととして、人生にはそんな微分の計算よりももっと値打ちのあることがたくさんある。
だからここで明らかになっているのは、帰りに見るであろう風景を通り過ぎる前から見ることができるかどうか、あるいはまた、十分に早くそれを手に入れてこれからの生に活かすことができるか、といった問題ではなく、そのような問いを立ててしまう、そういう声を聞いてしまう、そこを巡って回ってしまう、そうした囚われの元にある種の人びとがある、ということで、そのある種の人びとというのが極々限られた人たちでしかないのか、あるいは程度の差こそあれ普遍的に見られる性向なのか、そこは軽々に断じられないのだけれど、ともかく、ここを巡って回ってしまう、という癖のようなものがある。
この規範というか、規範の規範のようなものを、ないと知りながらあるという体で運用してしまうのが否認であって、つまりは他者の他者、フロイトーラカン的に人を神経症・精神病・倒錯に分類してみるなら倒錯ということで、なおかつ現代的な潮流、本邦において言うならおそらく95年以降の世界というのはこの倒錯が薄く広く覆っているもので、いわば社会全体が否認共同体を為し、言葉と物が張り付いたかの如くぴったりと隙間なく了解できる明るく見通しのある世界を信じている、というのはやはり正確さに欠けていて、そんな世界が試験管の中にしかないことは多くの人びとがわかっているのだけれど、そこはカッコに入れて、規範の規範はあるのだ、という体で運用しているというか、ジジェク風に言えばアイロニカルな没入、といった状態にあるのだろう。
これに抗う言説というのがあるとしたら、それは規範などない、とか、規範の規範など笑止、とかいうことではなくて、あるのかなぁ、ないのかなぁ、あるとしたらこうだよね、こう考えてみるとこういう風にも見える、ということをいつまでもいつまでもグダグダとやり続ける、ということで、対案を出せ、などと言われた時には、対案とか言われてもねぇ、大安吉日、などと言ってヘラヘラしていることではないかと思うけれど、そういう清く正しい神経症者の戦わない戦いというものを手放しで礼賛しようなどというつもりでいるわけでは、個人的にはない。
そういえば、評論というものが(文学にもまして)衰退したことの背景には、(「フィクション」はともかくとして)何かを論じるということは対象が定まっていてどこかに答えがあるはずの行いであり、それが答えも定まらないままに、ああでもないこうでもないとさまよったり、「独善的」にオレオレ理論を振りかざすのは無意味で馬鹿げた行いだ、というような、それこそ言葉と物が張り付いたナイーヴな世界観が一般化したからではないか、という話を今日したばかりなのだけれど、裏を返せば、「フィクション」ならよろしい、という暗黙の了解は共有されていて、ここでの「フィクション」とは「現実」と関係のない「表現」なるもので、その「表現」は主体性とか内面とかそういうものから泉の如く湧き出ている、とでもいうようなモデルが、これもまた薄ぼんやりと人びとの間で分かち合われている。
けれども言うまでもなく、「フィクション」が「現実」と関係なく成り立っている、などというのはほとんど妄想で、もちろん「とてもとてもフィクション」なものや「とてもとても現実」なものはあるのだけれど、いわばリングの上に裸に手ぶらの男が二人出てきて殴り合うという「現実」が極めて「フィクショナル」であるかのように、両者にはどちらがどちらに根ざすというのでもなく、裏返って互いに互いの背中に乗るようなところがあって、それを「フィクション」「現実」というのは、最初の話で言えば振り返って見た「帰りに見るであろう風景」にも似て、ただ外形だけを記述した俗耳向けの役に立たないおとぎ話でしかないのだけれど、しかしまた、このおとぎ話というのも「フィクション」と同じく、なんら「現実」と交わらないというわけでもなく、このおとぎ話自体は(面白くもなんともない)「現実」の背中に乗りつつ背中に乗せていて、なおかつ、「フィクション」という語の登場するこのおとぎ話はメタフィクションなどではないし、他者の他者がないが如く、おそらくはこのおとぎ話だけが、唯一のフィクションなのである。
こういうものは別段、王様が裸と看破するものではないし、大体がまた、子ども一人が裸と言ったくらいで王様の裸ぶりに気づいてしまって、なおかつ、今の今まで服を着ていたと言い張っていたくせに声を合わせて裸だ裸だなどと叫んでしまう周りの人びとは大人としてあまりに無責任ではないかと思うのだけれど、どちらかといえば、裁判所の前で今か今かと待ち構えているカメラの列の前に「無罪」とかなんとか、そんな紙をかざして勝手に走り出すようなもので、果たして結果的に無罪であったのかどうか、そんなものとは関係なく、ただただ頓狂な行いであって、でも一方で、どこか無罪と掲げてしまうのには無罪なものがある。
そういえば、戦争が終わって人びとがころっと態度を変えたとか、あるいはまた、終わる前から聡明な人びとは負けるとわかっていたとか、わかっていたから「それ見たことか」と思ったとか、そんなものはどれもこれも大作りにすぎる物語であって、わかっているようなわかっていないような、わかっていてわからないフリをしていたとかいうのではなく、わかっているがままにわからないというか、それを知らされてなお、何を口にすべきなのか定まらず、グッと奥歯を噛み締めてみたり、明日の天気とか歌舞伎役者の話をしたり、そんな風にして歳をとっていった人びとが大勢いたはずなのだけれど、わかりの良い物語に人びとは飛びつくし、しかも当の登場人物自身が後から来たこの物語にすっかりやられてしまって、後の後になってからそうだそうだなどと口を合わせてしまうこともままあって、しかも声の大きいというか、声の小ささを十分にアピールできるほどには大きい人びとが目立つものだから、より一層そういう、人間的というか感傷的というか、まとまりの良い像というものが人びとに染み渡ってしまうのだけれど、ただ、こうした了解に堕ちてしまう、その風景だけは、間違いなくリアルで、どうしようもなく、とりつくしまもなく、目の前からやって来て、流れ去っていく。
この風景を後で振り返って見ることはできない。