一時期不審船というのが流行っていましたね。今もなのでしょうか。北朝鮮からのものらしい木造船が漂着して、居住者のいない島で「略奪」を行っているとか、流れ着いたら死体しか乗っていなかったとか、そんなお話です。
知人の右翼殿がこれにお怒りで、わたしはつい何気なく「あんな船に乗せられるのもたまったものではないですね」という旨を発言したところ、釈然としない様子で「とにかく地方自治体は大迷惑だ」といったことを仰っていました。
不審船など年中来ているのであって突然おしかけたように報道するのは恣意的だとか、色々議論はあるようですが、そうしたことは一旦脇に避けて、このわたしの発言と右翼の方のお怒りを考えると、わたしはちょっと、ナイーヴなことを言ってしまったなぁ、と後になって思ったのです。
「人道的」観点から言えば、北朝鮮では多くの人民が飢えに苦しんではいるのでしょうし、「悪いのは北の政権、人民に咎はなし」というのも一理あるでしょう。少なくともわたしは、割合にそういう感性を当たり前のものとして教育されてきました。
しかし一方で、流れ着いた人々が「半ば無理やり決死隊みたいな船に乗せられた送り出された可哀想な人々」と想像するのは、こっちの勝手な物語に過ぎません。もしかすると既にガチガチに洗脳されていて「日帝許すまじ」みたいな凄い剣幕でやってくるのかもしれません。洗脳というのは極端な言い方ですが、別段狭いところに閉じ込めて薬など打たなくても、生まれ育った環境により自然とそういう考え方になる人がいてもおかしくないでしょう。それも含めて「洗脳」というのは、また自文化中心的というか、「侵略的民主主義」の傲慢でしかありません。
では北には北の立場があり、こちらにはこちらの立場がある、などという相対主義的なことが言いたいかというと、それも違います。
ボロボロの木造船に乗ってやってきた当事者たちが一体何を考えているのか。端的に言って、わかりません。
実際に相対した海上保安庁の方とかなら、多少は理解できるかもしれません。それでも一人とか二人、具体的な人物に対して多少なりとも察するというだけであって、彼らを一括りにして「そういう人」呼ばわりすれば、それもまた嘘というものです。
物語になれば、全部嘘なのです。世界の実相に物語などないのですから。
単純に「わからない」のですが、わたしたちはただただ「わからない」という宙ぶらりん状態には耐えられません。
それは象徴経済の枠組みの中で生きる主体として容認し難い、という意味がまず一つありますが、それと同時に、倫理的に許されない、という問題があります。なぜならこの「わからない」世界に対してわたしたちは既に参加し、不断の決定を繰り返しながら存在しているからです。
わかりやすく言うなら、この世界には「敵」がいる、ということです。犯罪者ではありません。ただの敵です。
犯罪者とかテロリストという発想は、世界には一つの法があり、それに照らして「正しくない人々」がいる、というものの見方です。しかしこの一つの世界自体が一つの仮構なのですから、必ず有限なもので、その縁より先にはただただ意味のわからない「敵」がいるだけです。はっきりしているのは、この人々は時々「わたしたち」の生を脅かす、ということです。常に、ではありません。
この敵が何を考えているのか。わからないから物語をつける。鬼畜米英とか日帝の悪魔とか、なんでもよろしいです。それは嘘です。嘘ですが、敵がいるということだけは間違いがありません。世界は一つの光によって遍く照らされたりはしていません。
敵がいるにしても、あらゆる共約可能性を越えた不条理としてある、ということは滅多にないでしょうから、一定の範囲で理解することは可能ではあるでしょう。しかしそこに「なんだかんだ言って同じ人間」などという総称的な物語をかぶせてしまっては、それもまた嘘というものです。
物語の力によって引き金を軽くしたり重くしたり、そういうことは可能です。しかし引き金が軽かろうが重かろうが、いずれ時がくればそれを引かなければいけません。時は来ないかもしれません。いつ来るかもわかりません。しかしそういう時というのは、この世の中にあります。
そして時が来れば、どのみち撃つしかなくて、撃たなければ撃たれます。「敵」が悪魔であろうが、「何だかんだ言って同じ人間」だろうが、殺人マシーンだろうが可哀想なお父さんだろうが、そんなこととは全然関係なく、「敵」と「我々」の関係は進行していくのです。
あたかも二重写しの世界があるかのようです。一つの層には、圧政に苦しむ憐れな人民とか理屈の通じない野蛮人であるとか、物語がひしめき合っています。物語は互いに他の物語を糾弾し、自らの正しさを証し立てようとしています。
別の層では、ただ敵がいます。いないかもしれない。見えるものではありません。ただ不意に、まったく不条理に、敵が現れ、撃ったり撃たなかったりする。撃たなければ撃たれるのでしょう。そういう設計の狂った機械的なゲームみたいなものが運動しています。
わたしたちはイマジネールな世界に常にコミットしているので、あらゆる物語から離脱するということはできません。論理的と同時に、被投的存在として倫理的にできないでしょう。
それと同時に、物語の潰えるその臨界において、実相の陰を追うこともまた、倫理的要請として背負っているのではないかと思っています。少し違うかもしれません。万人に対する義務ではないでしょう。ほとんどの人はそんなヒリついた生を生きないでも咎はないものです。ただ少なくともある種の人々の前には、義務として立ちはだかっているはずです。否定神学と言われてしまえば反論もないのですが。
引き金は重くなったり軽くなったりしますが、いつ引き金を引くかは誰も教えてくれないし、本当は誰にもわかりません。教えてくれる物語があるとしたら、それはすべて嘘なのですから。