良い抵抗と悪い抵抗などというものはないに始まる一連のエントリに関連するお話です。
フラットな世界に対する抵抗、という意識がまずあり、しかし見通しが良く管理されたグローバルな世界は結構なかなか良いところなので、結果、抵抗はある種の失敗として介入する、ということでした。
抵抗というのはねっとりしていてウェットなものです。先日某所で、「煙草というのは本来、貰ったりあげたりするものだ」というお話をされている方がいらしたのですが、全く仰る通りで、ここでの手間暇こそ超電導に抗う抵抗、人の生きる営みというものです。多少非効率的かもわかりませんが、そこで効率を減じている関係性自体が正に人間が生きているということなのですから、あんまり物事スッキリさせてしまっては誰が生きているのやら分かりません。そうではあるのですが、容易に想像がつく通り、こうした生気溢れる真っ当な世の中というのは面倒です。貰い煙草くらいなら良いかもしれませんが、ちょっと駐車場に車を入れるのに小遣いをやって世間話をして、おまけに会計も不透明で無駄だらけ、それでも人間関係さえスムーズに行くなら良いのですが、時には余計な軋轢が生まれます。いや、むしろ他人と関われば面倒が起こることの方が多い訳で、だからエライ人はお金の力で自分に会えるまでに受付嬢とか門番とか秘書とか何段も乗り越えないとやってこられない障壁を作っているのです。人は面倒ですし、時には喧嘩にもなります。
そうした軋轢を避けるために、かつては儀礼や礼節のコードというのが高度に積み上げられていたのです。礼節とは制度化された無関心だ、と言いますが、必要以上に踏み込まず、かといって「何シカトくれてんだ殺すぞ!」と怒られない程度にはご機嫌を伺い、一緒に神輿を担いで仲間意識を高め、そういう諸々をこなした上で、ウェットな世界を保っていたのです。当然、これらの諸々はそれ自体が面倒臭いです。沢山の人が面倒臭いと思っていたところに、近代化で便利なものが色々出来てしまった結果、ポイポイ気軽に捨てて、スターリニズム的ディストピアの進行という現況ができあがったのでしょう。ある意味、皆さんやお父さんお母さんの望んだ結果です。
この面倒臭さというのは田舎の鬱陶しさです。今でも都会よりは田舎の方が抵抗的人間関係は残っていて、隣近所両隣、親戚づきあい神輿担ぎ、面倒で非効率で実に「人間的」要素が満載です。そしてこれについても、大抵の人は鬱陶しいと思っていたからこそ、大挙して都会に出てきて、結果人口集中ということになっているのでしょう。これも皆さんの望んだ通りですから、良い世の中になったものです。
さて、大雑把にこのような絵図を描いたとすると、
①都会的・効率的・ドライ・共通のコードや儀礼が少ない
②田舎的・非効率的・ウェット・共通のコードや儀礼が多い
という二つの極があることになります。もちろん両者はオールオアナッシングというものではなく、グラデーション的に様々な段階があって、各人良い按配の田舎具合都会具合、お付き合いの密度というのがあるのでしょう。フラット化の進行という点で言えば、断然①の方に向かっている訳で、自身が①タイプだと自認している方々にとってはむしろ歓迎すべき事柄でしょう(勿論各論では是々非々があり、正にそういうお話を今しているのですが)。
と、ここまではまだスッキリしているのですが、ここでフラットな世界と抵抗などというお話をしているわたし、またおそらくはこんなお話を理解できてしまう方々の大勢、例えば某ファシストの界隈にいらっしゃるような文化的な方々、そういう人たちは、先の「貰い煙草は大事」論者と同じく、生命ある抵抗性の高い世界の重要性をよくよく認識はしているのですが、一方で個人の来歴としてはどちらかというと①タイプで、都会っ子かどうかはともかく割合に高学歴で教養があり、一方で田舎臭い伝統的な礼節儀礼には疎い、という人たちではないのでしょうか。平たく言えば、神輿を担いでいない、消防団に入っていない、お中元とか出さないタイプの人たちです。
この人達は、生まれ育ちとしては比較的①タイプなのですが「②を失ってはならない!」とか喚いていて、なおかつ、本当に②な世界になったら真っ先に脱落しそうな、心身ともにへなちょこな人種なのです。礼節のコードというのは本当に重要で、上下関係や面子、嫉妬羨望の渦巻く間を微妙な機微で読んで返す、そうしたスキルなのですが、このタイプの人たちのほとんどはこれに長じているとも言えません。むしろ普通の都会っ子とかリベラルよりダメなくらいなのではないでしょうか。
なぜ、こんなに②に不適応なタイプな人たちが、せっかくの住みやすい①世界を否定して「②を失ってはならない!」と叫ぶのでしょうか。そこには色々な理由があるでしょうが、一番は何と言っても、馬鹿だからでしょう。それはそうです。煙草が大好きでニコチンのためなら死ねる!という人が禁煙社会を推進したり、ワンちゃん猫ちゃんが大好きでワンちゃん猫ちゃんのためなら死ねる!という人たちがマンションのペット飼育反対運動をするようなものです。馬鹿というより他にありません。
ただ、馬鹿ということでは人類とはそもそもオツムの足りないもので、ここ百年か二百年ほどは調子に乗って世の中なんでも分かってみせる、今の科学では分からなくてもそのうち分かるんや!というイキった口をきいているのですが、森羅万象理性で捉えるなどというのは土台無理な話です。そんなことは大方の皆さんも分かっていて、だから系を切るのです。実験室のように境目をくっきりさせて「ここからここまでなら分かる、この前提ならこうなる」とするのです。近代科学というのはそういうもので、科学的素養など一ミリもないその辺のおっちゃんおばちゃんでも、近代の気風の薫陶を受けてなんとなくそんな風に考えていたり、もっと素朴に小さく身の回りのことだけを考えて、その範囲でそこそこ妥当な答えを出しているのです。つまり身の程を知った馬鹿ということです。
これに対し、上で述べたような①の分際で②を語ってしまうような馬鹿というのは身の程を知らないのです。ただこれも、人にはどこか「身の程を知りたくない」という欲があります。この欲は世の中に出てボコボコにされて、社会人三年目くらいで大体枯れ果てるのが普通で、良く言えば大人になるのですが、世の中にはほとほと身の程を知らない馬鹿というのがいて、こういう人たちがいつまで経っても懲りずに馬鹿をやり続けます。ただ、世が知で捉えきれるものでもない、というのは一面の真理であって、馬鹿の描き出す矛盾だらけの世界というのは、ある意味世界そのもの、世の通らなさそれ自体でもあります。
ちょっと話がズレますが、今、国民戦線の支持者の人々を思い浮かべています。彼らの中にはネトウヨのようなゴリゴリの人もまぁいるでしょうが、元極左、中道右派、移民に恨みを抱いた中下層労働者、移民の子孫、性的少数者など、かなりのヴァリエーションがあり、一同に会せば掴み合いにもなりかねないほどまとまりがありません。この頃流行の極右勢力の主張というのは、理念と呼ぶほどの統一的な理論を備える訳でもなく、仔細に眺めれば矛盾だらけの内容です。ただ、何かマジックワードがある。「愛国心」とか、それだけ言っとけば何とかなるようなワードがあって、実際の「愛国心」など各立場によっていかようにも取れるし、極右も極左もある意味愛国者を自認している人などザラなわけですが、ワードの魔力で理論的矛盾などふっ飛ばしてしまう訳です。
こういう主張を、リベラルの人などは嗤いますし、まあ嗤って当然だと思うのですが、ただ世の中というのはそういうものなのです。実際、それこそフラットな世界で仔細に渡るまで主体性を持って意見をぶつけ合えば、まとまったりする筈がないのです。それで強引に多数決を取れば、民主主義の名を借りた横暴だとか、ポピュリズムだとか、そんな風に言われるのがオチです。もう世界は十分に平たくなってしまったので、かつては黙っていたサバルタンどもが好き放題のことをあっちこっちで喚き出すし、理論的一貫性などで通る世界ではなくなってしまったのです。だから仕方なく、どうとでも取れる「愛国心」「イスラームこそ解決」みたいなので勝負しているのです。
ここで最初のフラットと抵抗の関係に戻りますが、昔はあちこちに壁とか垣根とかちょっとした凹みなんかがありまして、加えてほとんどの人が字もロクに読めないパープリンでしたから、民主主義などと綺麗事を抜かしたところで、話なんかちっとも通じていなかったのです。系を区切って小さくまとまった辻褄の合うことを言っていても、それが分かる人の範囲で「分かる!分かる!」と言い合っていればまとまったのです。ところが世の中はもうかなりフラットになってしまって、バカゴミクズどもが言いたいことを言えますから、まとまるものもまとまらない。彼らは理解などしないのです。分かりたいことしか分からない。それを馬鹿と言っても始まりません。人類は大体馬鹿です。それで「愛国心」「イスラームこそ解決」となって、まぁそっちの方は好きなようにやって頂ければよろしい。世界は筋道だって出来ていませんから、筋の通った人がうまくやるとは限りませんし、筋の通らない人が失敗するとも限りません。めちゃくちゃやって、結果なんとなくうまくいくかもしれません。ワードで扇動というのは頭は悪いですが勢いはありますし、世の中大体勢いで動いていますから、そんなもので案外それなりにやっていけるのではないかと思います。
ここで、それに輪をかけた馬鹿というのがいまして、ここでうまく行ってしまうのもそれはそれでつまらん、と思うのです。なぜならこのタイプの馬鹿の言いたいことは、存在!とか生命!とかエランヴィタール!とか、もう極論すると大雑把極まりないことで、いわば分からないことそのもの、分かって分かってでも残りがある、その割り切れない余りみたいなところしか目に入っていないのです。だからやること為すこと滅茶苦茶です。①のひ弱な都会っ子でヒューマンスキルなんか全然ないくせに、②が大事とか言って漁船に乗って船酔いで吐いたりするのです。
こういう人たちは、選挙に出ても絶対勝てません。世の中も変えないでしょう。なぜなら、もう彼らの存在自体が世の中の不条理そのもの、不条理故にエランヴィタールな、生き様即宇宙な人種だからです。国民戦線よりももっと頭が足りないのです。ただ、こういうものが総て損なわれて、ただワードを振り回している人が勝利してしまうと、ワードはすぐさま陳腐化し、最初放っていた輝きも失って、ただの死に体、民主主義よりももっとカスな硬直した世界だけが残ります。その焼け跡のようなところで、まだキャンプファイヤーとかしている馬鹿がいるとしたら、こいつらくらいのものでしょう。キャンプファイヤーは所詮キャンプファイヤーなので、電気も起こせなければシステムも回せませんが、そういう火がなくなったら人生などクソしか残りません。
美しいものが見たいし、他のことは人権も国家安全保障も憲法9条も二の次です。十万人虐殺してもいい。でも安心して下さい。選挙では負けますから。