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『父という余分なもの―サルに探る文明の起源』山極寿一

父という余分なもの―サルに探る文明の起源
山極 寿一
新書館 1997-08

by G-Tools

 「父という余分なもの」。ラカニアン、あるいはフロイディアンの著書だとしたら、何の気もなく流してしまうタイトルですが、著者の山極寿一さんはゴリラの研究で知られる動物行動学、人類学の研究者。こんな素晴らしい取り合わせは必ず面白い本に違いない、と思い、早速注文しました。
 表題となっている「父という余分なもの」の章の概要をメモしてみます。

 サルの仲間には子供の養育を父親が手伝うことがあるが、極幼児期に限られる。また幼児の世話をしていることにより他のオスからの攻撃を回避できる、というメリットによることもあり、この場合、世話をしているのは実際の父親とは限らず、単に劣位にあるオスが身を守るための行動であることが多い。いずれにせよ、子が父を通じ社会化される、ということはない。
 テナガザルでは親が子供の縄張り作りを手伝う、つまり思春期の子に対して関係を持つことがあるが、ペア構造の縄張りを保つため、結局は集団の継続性は断たれてしまう。
 ゴリラはなわばりを持たず、父と息子で集団の継承が生じる場合があり、父親は離乳期以後の子供とよく関わる。そして母ー息子だけでなく、父ー娘でも交尾を回避する傾向があり、成長した息子は、力が強くなっても「子供の頃面倒を見てくれたオス」を追い出そうとしない。
 初期人類はテナガザルやゴリラのような、雌雄の持続的な配偶関係に基づいた集団から出発したはずである。その際、これらの種で配偶関係の独占がオスの反発関係により維持されていたのに対し、オス同士の連帯を可能にする父系的つながりを強化したものと思われる。
 父親と息子の関係を母親と娘の関係と同等なレベルに引き上げれば(社会的インセストタブーの形成)、息子が成熟しても、父親とはオスとオスの(敵対的)関係ではなくなり、世代の基準が明確化する。ただし、父という存在は配偶者と子供の両方から承認される必要があり、一方で配偶者や子供と同居し続けることも難しい。そこで社会的・文化的構造により自らを位置づける、という操作が必要になる(象徴化!)。

 親族構造の成立と父の誕生は同時的であり、このサンボリックな次元の導入により、父ー子の闘争が仲裁される。逆に、本書の別の個所では、「母」であるサルが敢えて「メス」としてふるまうことにより、オス同士の対立を誘発している下りがあります。こうした状況は人間の社会にも見られますが、父系社会のおける仲裁の位階として、父-親族構造-象徴的次元が打ち立てられているのは、とても興味深いです。
 父系システムというのは、類人猿の世界全体で見るとマイノリティのようです。つまり、集団構造が保たれるとしたら、一般的には娘が母のもとに留まり、オスが遊動することでインセストが回避される。一方、もし息子が父の元に留まるとすると、父と息子という関係は生物学的には希薄ですから(遺伝子的にはもちろんつながっているが、母子のような関係にはない)、この間でインセストを回避するには、社会的次元での仲裁策が必要になります。
 こうした背景と、発声可能な咽頭構造を獲得すること、そしておそらくは遊びの営みから発達した仮想化能力が一体のものとして、人類社会のサンボリックな領域を作り上げたのでしょう。

 残念なのは、この本は「父という余分なもの」を巡る書き下ろしの一冊ではなく、様々な媒体に発表された試論をまとめたもの、ということ。「父という余分なもの」という最初の一章は書き下ろしですが、他の章は必ずしもこのテーマに沿ったものではありませんし、重複する内容もあります。それらは相互に連関していて、それぞれに興味深い内容なのですが、個人的には「父」の機能を中軸に据えた一冊分の論考があれば、もっと嬉しかったです。
 『家族の起源―父性の登場』という、本書より前の著作では、よりこの問題に的が絞りこまれている?ようなので、読んでみるかもしれません。

kharuuf

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