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『イスラーム世界の創造』羽田正

イスラーム世界の創造 (東洋叢書)
羽田 正
東京大学出版会 2005-07

 「イスラーム世界」という、どこかわかったようなわからないような曖昧な概念について、その発生過程と問題点を指摘する、非常にスリリングで示唆に富んだ一冊。
 「イスラーム世界」という括りが、いかにも曖昧で胡散臭い、という思いは、イスラームに多少なりとも関心を持った人なら一度は感じたことがあるかと思いますが、この問題を文献学的な考証に基づき抉出してくれます。
 以下、非常に大雑把に要約しておきます。

 「イスラーム世界」という語の使用法は、大凡以下の四種類に整理できる。

1:理念的な意味でのムスリム社会(ムスリムの考える、理念上の信徒共同体)
2:イスラーム諸国会議機構
3:住民の多数がムスリムである地域
4:支配者がムスリムでイスラーム法による統治が行われている地域

 前近代におけるアラビア語の地理書や世界史書の一部には「イスラーム世界」という表現が見られ、ほぼ4の意味である(3ではない)。一方、ペルシア語文献では、こうした表現は見られない。また、前者の「イスラーム世界」についても、これは世界を「イスラーム/非イスラーム」に二分した場合の「イスラーム世界」であり、わたしたちが使う「諸世界のうちの一つとしてのイスラーム世界」という意味ではない。

 十八世紀以前のラテン・キリスト教世界では「イスラーム世界」という表現はほとんど用いられていなかった。「オリエント」または「アジア」と認識された地域に住む人々を指すために主に使用されたのは、トルコ人、ペルシア人、ムーア人、中国人といった、広い意味での民族名である。
 ムスリムが多く居住し、イスラームの影響力が強い地域を「イスラーム世界」ととらえる世界認識は、十九世紀になって世俗化が進行する近代西ヨーロッパで生まれた。「イスラーム世界」は「ヨーロッパ」と対になる言葉で、プラスの「ヨーロッパ」に対しマイナスの「イスラーム世界」を対置する概念であった。ただしその地理的境界は明確ではない。
 アフガーニーなどのイスラーム主義者によるプラスの「イスラーム世界」も、十九世紀ヨーロッパにおける政治思想の展開に関連して産まれた。これは理念的な「ムスリム共同体」の意味に近く(1)、全世界のムスリムが一体となりヨーロッパ植民地主義に対抗する、という文脈で使われた。これについても、地理的境界は不明確である。
 十九世紀の東洋学においても、「イスラーム世界」という概念が使われたが、これは4の意味を持ち、地理的境界を備える。イデオロギーとしての「イスラーム世界」と東洋学における歴史的「イスラーム世界」は本来別物であった。

 二十世紀半ばまでに、ヨーロッパの東洋学者による「イスラーム世界」史が確立されると、イスラーム主義者も対抗し(プラスの属性を備えた)「イスラーム世界」史を主張した。

 現代の中東諸国における歴史教育の主流は、国家、民族単位での歴史叙述であり、「イスラーム世界」という枠組みに基づく歴史認識は重視されていない。

 日本では、一九三〇年代にいたるまで「イスラーム世界」という空間概念は知られていなかった。
 一九三〇年代後半、突如として「回教圏」という概念が脚光を浴びるようになった。これは、ムスリムを一種の宗教民族としてとらえる「回教圏」概念が、中国大陸や南洋への進出を望む政府や軍部の利害と一致したためである。この「回教圏」概念は、理念としての全ムスリム共同体と、現実にムスリムが多く住む地域を一体と考えるものであり、現代の「イスラーム世界」概念に連なる性質がある。
 現在、日本の多くの大学で「イスラーム世界」史が東洋史の範疇に入っているのは、アジア主義、大東亜共栄圏構想の遺産とも言える。
 戦後に生まれた高等学校の世界史という教科において、「イスラーム世界」は歴史的地域世界の一つとして教えられている。中等教育において「世界史」があり、その上「イスラーム世界」という枠組みが確固としているのは、極めて珍しく日本的な特徴である。

 理念としての「イスラーム世界」を、実際の地理的空間と結びつけることには、強引さが伴われる。地理的「イスラーム世界」の実在を前提とする研究には、その地域に何らかの一貫性を予め読み込む不自然さが、どうしても入り込んでしまう。
 「イスラーム世界」は、理念としてのムスリム共同体(ムスリムの心の中にある世界)についてのみ用いられるべきで、「ムスリムが住民の多数を占める地域」とは区別されるべきである。その地理的空間は広大であり、それを漠然と「イスラーム世界」概念でまとめるこはできない。

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