昨年、フランスで痩せすぎのモデルの活動を禁止する法案が可決しました。極端な身体イメージが人びと、特に若い女性に与える影響を考慮してのもののようです。
また他にも、敢えて「理想的ではない」体型のモデルを採用した雑誌であるとか、もっと普通の体型のバービー人形であるとか、市場に流通する身体イメージを変えていこう、より自然なものにしていこう、という試みはしばしば耳にします。
こうした試みは肯定的に受け取れるもので、わたし個人としても、スーパーモデルのような身体イメージがあまりに支配的な状況には変わっていって欲しいと願っています。
それは大前提として、一方で、こうした試みに対して「やっぱり自然が一番だよね」的に受け取る向きについては、より一層の危機感を抱きます。
このような受け止め方は、実際に「商業主義的身体イメージへの挑戦」を行っている方たちの本意ではないのではないかと思うのですが、少なくとも外野では「自然が一番だよね」的な了解の仕方をする人たちが散見されます。
この理解の危険性とは、ここで言う「自然」もまた別の標準イメージにしか他ならず、かつより一層動かし難く厄介な性質を持っていることです。
「自然な身体」とは何でしょうか。
平均をとって「一般的な身体イメージ」を考えることはできるでしょう。ですがもちろん、実際にはそれに近い人もいれば、遠い人もいるし、四肢が欠損している人もいるし、極端な形の人もいます。
これらのヴァリアントはすべて「自然」に生まれてきたもので、別段資生堂が作ったバイオロイドか何かではありません。しかし、「自然が一番だよね」「自然な身体」と言われている時、想定されているのは「一般的な身体イメージ」に近いもので、なおかつ「放っておいてもそこそこ健康でそこそこ見栄えの良かった自然」でしかありません。
実際の「自然」には著しく標準を外れたものもあれば、機能が十分でないものもあります。
いわゆるモデル体型の人たちの中には、たまたま体質的に特殊で、放っておいてもそういうスタイルを維持できる人たちだっているでしょう。その人たちにしてみればそれが「自然」です。そういう人をつかまえて「お前は不自然だ、不適切だ」と言ったとしたら、それは無茶というものです。
当然ながら、上で挙げたような試みを行っている人たちの本意はまったくそういうところにはないと思うのですが、ナイーヴな受け止め方をする人たちの中にある「自然が一番だよね」には、一転して「自然なる標準」が振りかざされる契機が根付いています。
こうしたことは、例えばLGBTの問題などにも言えて、性的少数者にしたところで「自然に」そうなったわけですが、「自然なる標準」が振りかざされると、実のところちっとも自然ではない、「理想的な自然」の元に断罪される危険があるわけです。
加えて、脳科学やら遺伝子なんちゃらやらが支配的な世界ですから、そうした生物学的基礎の中に「自然なる標準」の礎を見つけ出されると、これは大変に強固な武器になります。優生学まであと一歩です。
ここで問題なのは、自然なるものが確かな基礎として確認することができる、たとえ100%はわかっていないにしても「科学が進歩すれば(!)」わかるものとして想定される、という、そうした態度です。無前提に肯定すべき標準がどこかにあるのだ、という信念です。
本当のところ、「自然」とは絶対的な他者であって不条理で理解不能で茫漠たるものなわけですが、自分たちの頼るべき確かなものが崩れ去っては大変なので、脳科学や日本の四季は最高!的な素朴さをもって、確かな何かが確実に守ってくれる筈、その何かをもって標準から外れたものを叩いておこう、叩けば叩くほど自分のこの場所は安全になる、と考えておきたいのです。
世界は実際のところ、もっとわけのわからないもので絶望的なのです。
そのわけのわかからない絶望的な世界の中で、わたしたちは箱庭的な狭いところで小さく寄り添って生きています。
この割り当てられた領土は限りあるものですから、そこで互いに生きていくために、法というものがあるでしょう。より正確に言えば、そこでこの小さなものたちを生かしておくために、課せられた法というものがあります。
しかしその法は、母性的で納得のいく法ではなく、不条理で時に暴力的でもある法であり、わたしたちはこちらの法に縛られているのです。その法は、「自然が一番だよね」などという甘っちょろいものでは全然ないのです。
もちろん、商業主義的に涵養された身体イメージなどは別段天から降ってきたものではありませんから、重ね重ね最初にあげたような試み自体については応援したいのですが、それが取り払われた先に「自然な身体」が出現するかというと、そんなことはまったくありません。出現するのは、不気味で受け入れがたい不条理な身体です。そしてもちろん、これを直視するだけの力などわたしたちにはありませんから、何がしかのイメージをもって慌てて覆い隠すのです。
所詮それだけの哀れな生き物たちの中で、言葉尻だけの自然をかさにきて、自分だけは確かな土地に根ざしているかのような顔をして断罪するものがいるとしたら、その者は自分が握っているのが刀の柄なのか刃なのか、よくよく確かめた方がよいでしょう。
商業主義的なイメージに比べて、「自然」は遥かに確からしく見えてしまう、そういう「イメージ」ができあがっているだけに、より一層厄介なのです。法と戦えるのは法だけで、そのどちらの法も時に不条理で暴力的なもので、ただ法の外の武器を持つよりはいくらかマシな死に方ができるはずです。