命は尊いけれど、お金で買えるものだ。
だから賠償という考えがあるし、償える社会システムがあればこそ、際限のない報復を防ぐこともできる。お金があれば、高価な医療の恩恵も受けられる。
命の尊さがあるとすれば、それはお金で買えない、という意味においてではない。
この命、この世界、この時、という単独性にこそかけがえの無さがあるのであり、それはこのわたしと神様が背中で繋がっているようなものだ。
神の唯一性、タウヒードというのも、こういう意味で考えるべきだ。一つとか二つとか数えられるものがたまたま一つだから一者なのではない。数えられないからタウヒードなのだろう。
命の話で言えば、命が尊くてお金では買えない、と言ってしまったところから、その尊さがお金で買ったり買えなかったりを「問うことができる」ものへと堕してしまった。
命の尊さが語られれば語られる程に、何かその尊さ自体が安っぽくなっていく。
命はお金で買えるし、場合によってはそれ程高価なものではない。そんなこととは関係なく、単に尊い。尊いといより、詩のように一回しか巡って来ない。
人を戦争に追いやることについて、「人の命を何だと思っているのか」というような言葉を見かける。
その紋切型の反応を見るほどに、そこで語られている尊さの安っぽさに辟易する。
命は尊いのでとにかく命があればいい、というのなら、その尊さはどの道百年も持たない。そこに尊さがある訳ではない。
この命の中に、場合によっては戦って死ぬこともあるだろうし、草野球のボールが当たって失うこともあるだろうし、もっと信じられないくらい滑稽で訳の分からない使い方がされることもあるだろう。
そういう馬鹿馬鹿しさとか、意味があったりなかったりということと、全然関係ないところに、命の尊さがあるのではないか。
それが分からないなら、せいぜいのところ、今まで二千円だった命が二万円になったのと変わらないだろう。
別段、いわゆる意味での「命の値段」が高いことが悪いと言っているのではない。それはそれで大いに結構。
しかしそれと命の尊さとは全然関係ない話で、尊さとか何とか語れない、分節できないところにだけ、代えがたい何かがあるのだ。