あるところで、化学兵器を「貧者の核兵器」というのを見ました。「貧者の核兵器」と呼ばれる兵器はいくつかありますが、要するにお金や技術力が至らなくても可能な「大量破壊兵器」ということです。
テロという闘争手段も、ある意味「貧者の戦法」です。正規軍で正面対峙しても勝ち目がない、あるいはそもそも正規軍という概念を持たない非国家的集団によるゲリラ的闘争手段として、いわゆるテロがあります。
これらはおしなべて「イケナイもの」ということにされていて、諸大国はなんとか利害をすりあわせて取り締まろうとしています。「持てる者」としては、「貧者」に変な一発逆転の不意打ちを食らったらたまらないからです。
そうしたキャンペーンの一環として、テロや化学兵器が「道徳的に悪」であるかのような言説が流布されており、それをすっかり真に受けて「非人道的」などと信じてしまっている人たちがいますが、「非人道的」というなら、「富者の核兵器」も通常の戦争も別に人道的ではありません。道徳的価値判断が付け加えられるのは、あくまで大衆扇動のための方便であり、実際は富者が富者にとって有利な状況をキープしようという、それだけの話です。
だからといって、「貧者の最後の望みを潰すとは卑劣なり」というのではありません。いや、卑劣は卑劣なのですが、少なくともわたしは、ここで言う貧者と富者なら富者の陣営に属しているわけで、道徳的基準ではなく、単純な功利からいっても「持てるもの」の味方をしておいた方が得です。そして何より、今この世界で何はともあれ生きているということは、多少の不利益があるにせよ、ともかく「この」世の中に生かされているということで、「この」世の中を維持する(ホメオスタシス)という意味では、生きている人間の大多数は、変な一発逆転など起こらない方が安パイではある訳です。実際、「貧者の核兵器」やテロ的攻撃手段によって一撃を食らわせることが出来たとしても、その後には富者の物量的反撃が待っているわけで、大局的に見れば「何もやらない方がマシ」な場合がほとんどでしょう。
そうではありますが、「イタチの最後っ屁」を封じる言説が、道徳的様相を装っているのは、端的に言って嘘でしかありません。
そもそも、暴力というのはとても公平なものです。
もちろん、単純な殴り合いで考えても、強い人も弱い人もいますし、ヒョードルと能年玲奈ではまったく勝負になりません。しかしそれでも、能年玲奈が五十人くらい命がけでかかっていったら、ヒョードルを転ばすことくらいはできるでしょう。日本刀の一つもあれば、ヒョードルだって笑っていなすことはできない筈です。
これが経済力や政治力となったら、その格差たるや一万倍などではまるで足りません。抽象化された社会システム的な力の違いは、生物学的な力の違いよりはるかに大きいです。
それに比べれば、暴力はずっと公平です。
大統領と乞食だって、殴り合いで勝負すればどっちが勝つか分かりません。大統領がムキムキマッチョのボディビルダーだとしても、乞食が四人がかりくらいでかかれば勝てるかもしれません。
こうした暴力が禁じられているのも、本当のところは道徳的理由でも何でもなく、「持てるもの」のロジックのためであり、そして多くの人々にとって(多少の不利益があるにせよ)総じて見れば「持てるもの」におもねっておいた方が得だからです。
逆に言えば、おもねる必要がもう全然ない、おもねっても全く絶望的に見込みがないなら、暴力という公平な手段に訴えるのは誠に筋が通っています。むしろ訴えないと損です。
だからこそ為政者というものは、貧乏人がそこまでヤケッパチにならないよう、生かさぬように殺さぬようにコントロールする才覚が問われるのでしょう。
こんなことは少なからぬ人々にとってまったく言うまでもない自明の理だと思いますが、例えば「化学兵器の禁止」がさも道徳的な目標であるかのように喧伝され(喧伝すること自体は労力の軽減という意味で合理的な方法でしょうが)、それを「本当に」信じてしまっている人たちが多少なりとも存在するということは、いささか不気味ではあります。
こうした「道徳的」言説というのは、「持てるもの」の末席に位置する人々、つまりわたし自身を含む大衆というものが、安心して人殺しが出来るようにするフィルターでしかありません。まぁ、実際、そのお陰で本当に安心して人殺しができるわけですから、きちんと機能しているといえば機能しているのですが、何か気持ち悪いものは残ります。
この最後に残る気持ち悪さこそ、倫理的な抵抗なのではないかと考えています。
ここでの倫理とは、フィルターとしての道徳に相反するものであり、ホメオスタシスというよりは死を求めるものです。
ちゃんと人殺しの顔をする、ということです。
それはまったく、ヤケッパチで役に立たないもので、合理性も何もありませんが、倫理というのはそういう場所にしか成り立たず、わたしたちがいずれ皆死ぬように、倫理もまた1%くらい最後に残るものでしょう。
それなしでは生きていけないものではなく、むしろ死ねないものとして。