昔、喜国雅彦氏が描いた5コマ漫画にこんなものがありました。
その漫画には貧しい父子のキャラがいるのですが、その子供が暑い夏に手足をジタバタさせて訴えます。「父ちゃん、暑いよー! クーラー買ってよー!」。
「そんな金あるか! 代わりに父ちゃんが涼しくなるポーズを教えてやる」
貧乏な父ちゃんは、変なヨガのようなポーズだか術だかを教えます。
「父ちゃん、全然涼しくならないよー!」
「バカヤロウ! そんなにすぐ涼しくなるか! 毎日続けるんだ!」
子供は毎日ポーズを続けます。そして秋になり・・
「父ちゃん、本当だ! 涼しくなってきたよ!」
細かいところは違ったかもしれませんが、大体こんな感じだったと思います。この話をよく思い出します。この漫画は単に面白いというだけでなく、色々と示唆に富んでいるように感じるのです。
言うまでもなく、父ちゃんの教えた術はインチキです。単に秋になったから涼しくなっただけです。
でもとりあえず、術に熱中している間は暑さのことを多少考えないで済んだでしょうし、そういう意味では気休めにはなったでしょう。
もちろん、クーラーを買って本当に涼しくできれば一番良いのですが、クーラーは買えません。仮にクーラー以外に物理的に涼しくする方法が皆無だとするなら、もう本当に涼しくする方法はありません。泣いても笑っても夏は暑いし、秋になれば涼しくなります。
この場合、すべてを諦めてしまうのも一つの方法なのですが、人間、なかなか諦めがつかないものです。そういう時は、気休めというも大切です。気が休まるなら結構なことです。
所詮、暑さで苦しいのも気持ちですし、それを感じないのも気持ちです。気持ちが多少和らぐなら、それだけでも「メッケモン」です。
世の中には、どうにかなることと、どうにもならないことがあります。あまりなんでも「どうにもならない」と諦めてしまうのは問題ですが、逆立ちしても何ともならないことがあります。物理的に無理なこともあるし、社会的・経済的に非常に困難、という場合もあります。そういう時、頑張って状況を変えようとするのも立派ではありますが、変な術をやって気を休めておくのも一手です。どうせどうにもならないんだから、気持ちだけでも安らいだ方がずっといいです。
もう一つのポイントは、子供が術だかポーズだかをやっているうちに、本当に涼しくなった、ということです。
もちろん、術のお陰で涼しくなった訳ではありません。秋になったから涼しくなっただけです。
でも漫画の中の子供は、術のお陰で涼しくなったと思っています。
「術なんかやらないでも放っとけば涼しくなるのに、やるだけ損」というのは全くその通りなのですが、別の見方をすれば、ただ秋になって涼しくなる、ということを、この子供は何倍も楽しんでいます。なにせ自分が苦労して毎日続けた術のお陰で、涼しくなったのですから。
言ってみれば、サーフィンで波に乗って進むようなもので、波は自分の力ではありませんが、上手いこと乗ってしまえば、まるで自分の力であるかのように気持ちよく進むことができます(サーフィンをやったことがないので、本当にそういう感じなのかは分かりませんが)。
これで思い上がって本当に術で何でも変えられると思ったら大問題ですが、そんな暴走をしない範囲で「流れに乗る」のは、楽しく生きていく上で重要な技術です。
一人の人間にできることなど、たかが知れています。生き物は所詮主の恵み(あるいは大自然の恵み)を拾って生きているだけですし、糊口をしのぐのも世の中のお金の流れから恵んでもらっているだけです。自然にも世の中にも流れというものがあり、この流れに乗っていれば割りと楽に生きて行けますが、流れから遠いと非常に大変です。自分で流れを引いてこないといけないからです。
逆に言えば、大きな流れのお陰で食べている人間は、術を組んでいる子供のようなもので、彼または彼女がアクセクやっていると思っているようなことは、実は大して重要でもなかったりします。あってもなくても流れは変わりません。ただ、アクセクやっている気になる、ということは大事です。つまり気休めです。
そこで本当に自分の力で流れを引き起こしていると思ったら、それは暴走というもので、やり過ぎです。漫画の子供だって、本当にこう思い込んでそのまま大人になったら、そのうち酷い目にあうことでしょう。
気休めは大事ですが、同時に、どこかで「所詮気休め」という諌めを持っていないといけません。所詮、恵みのおこぼれで生きているだけなのですから。
多分、わたしたちが日々行なっている「大切そうに見えること」のほとんどは、要するに気休めで、流れに乗って気を休めているうちに、年をとって死ぬのだと思います。