気仙川 畠山 直哉 河出書房新社 2012-09-01 |
以前に『畠山直哉「Blast」と物質の神、眼差し』というエントリで写真家・畠山直哉氏について書きましたが、氏は陸前高田市の出身。その畠山直哉氏が、東日本大震災発生直後に、母と二人の姉の安否を確かめるべく、故郷に向かってひた走る記録です。
正確に言えば、これは記録というようなものではありません。「自分の記憶を助けるために写真を撮るという習慣がない」という畠山氏は、記録というファンタジーに耽溺することがありません。ここで抉出されているのは、もっとずっと恐ろしいものです。
加えて、これは写真集です。構成としては、写真と写真の合間に文章が挿入されるような形になっています。
パッと開くと、ページの下半分に写真があり、上半分は空白です。下半分の写真の部分が、文章になっているページもあります。
最初に見た時、「どうしてページの半分しか使っていないのだろう? 上半分がもったいないよ」と素朴な印象を抱きました。しかし最初から写真と文章を追っていき、その意味が分かった時、全身に震えが走りました。
バイクで日本海側から陸前高田市を目指す畠山氏。しかし雪の降る季節であり、道は険しいです。途中でリュックに取り付けた携帯電話が鳴り、下の姉からの電話でしたが、バイクを停めている間に電話は切れてしまいます。留守番電話には「かあさんもねえさんも・・」という言葉がありますが、その後がよく聞き取れません。
それからしばらく経って、東京に住む同郷の親戚から電話があります。インターネットに公開された避難者名簿に、母と二人の姉の名前があった、という知らせです。電話の主は「だから急ぐことはない、お前まで事故にあったら大変だ」と言いますが、畠山氏はさっきの電話のことが頭にあり、何か腑に落ちません。ただ同時に、体育館のようなところで固い床の上に寄り添い、毛布を被っている三人の姿を思い浮かべます。
雪で足止めされ、酒田の知人宅で厄介になった時、避難者名簿を確認しますが、結婚した上の姉の名が旧姓のままであるのに疑念を抱きます。そうしていると、下の姉から衛星電話で連絡があります。「母さんと姉さんを捜しに行く」「え、一緒じゃないの?」。
「後ろに待ってる人がいるから、じゃあね」。あ、待って。切らないで。くそったれ。じゃあ、あれは存在する結果ではなかったのか。固い床の上で寄り添って、毛布を被っている三人なんて、いなかったというのか。あの情景を、いまさら僕の頭から消せというのか。
それからまたしばらくして下の姉からの留守番電話があり、上の姉の無事は確認されます。
でも母にかんしては何も言っていなかった。さっきまで僕の頭の中で、天理教教団施設で毛布にくるまっていた母は、だんだんいなくなった。
翌朝は冷え、外を見ると道路に雪が十センチ近く積もっている。電話のベルが鳴り「まだ酒田なの?」と姉が言う。「雪で動けなくて」「じゃ、あたし、これから遺体安置所をまわるから」。いよいよだ。昨日姉の伝言を聞いた時から想像はしていた。母はどこにもいないのだ。津波の日には母、いつものように姉が小学校の勤務から戻るのを待ちながら、気仙川の土手に建つあの家にいたのだろう。警報が出たあと、近所のみんなと仲町公民館に逃げたのかもしれない。とにかく母は、気仙町で消息が分からなくなり、今まで姉が捜索したどの場所にも見当たらないということだ。姉はたぶんもう、あの家がどうなったのかを確認し、いくつかの避難所を訪れ、近所の知り合いの生存者がどこかにいたなら、彼らから当時の様子を聞いた後に「遺体安置所を回る」ことにしたのだろう。その以前に姉は勤める広田小学校から、津波が引いたあとの泥の海を徒歩で渡り、何時間もかかって気仙町今泉に戻ってみたのに違いない。そしてたぶんすべてを見たのだ。寺も家も避難場所の公民館もすべてがなくなり、誰もいなくなってしまった町を、きっと見たのだ。
そして結局、氏の母は遺体安置所で見つかります。
母が存在していたのは、気仙町の自宅でも仲町公民館でも末崎町の天理教教団施設でもなく、米崎中学校の体育館だった。そして母は生きて(動いたり微笑んだりして)存在しているのではなかった。母の時間は、津波に襲われた三月十一日午後三時過ぎで止まり、僕らの時間だけが、あれから六日間動いていたのだ。
この六日の間に僕が頭に描いていた、母に関する様々な希望的情景、友人達と分かち合っていた、動きを伴う無数の情景が、すべて偽りであったと、いま誰かが託宣を下したのだ。彼女の時間はあの時に止まっていたのだと。いや、でもそれは卑怯だろう。「無事だ」という言葉が、そのまま今日まで保たれ現実となっているという話の展開だって、あり得たはずではないか。げんに一昨日と昨日、彼女は確かに毛布にくるまり固い床の上に座っていたではないか。
氏はとうとう故郷にたどり着き、あと十五分で姉と会う、というところで文章は終わります。
そこで突然、情景が変わります。
今までページの下半分を控えめに埋めていたのどかな東北の風景は姿を消し、見開きページで、泥と波に何もかもを奪われた瓦礫の山が突きつけられます。
白い空白の上半分の下で静かに流れていたのは、すべて震災前の陸前高田の風景だったのです。そして突然ナレーションは止み、音楽も止まり、絶望的な圧力の沈黙と共に、見開きの写真が続くのです。
白い空白の下に押し込められた写真は、既に手の届かなくなってしまった風景です。
もちろん、写真は常に過去を映すものです。切り取られた風景は、常に既に失われています。
しかしここで示されているのは、単に過ぎ去った風景ではありません。固い床の上で毛布にくるまっている三人の姿が、「一度も存在しなかった過去」となったように、かつて一度もなかった、有り得ない風景のように押し流されたしまった過去なのです。
氏が最初に想ってから、それが打ち消されるまでの六日間、確かに母は、体育館の床で毛布にくるまっていました。その情景は、その時その時の現在、その時その時の現実の一部を構成するものとして、確かに存在していました。
しかし一旦破壊されてしまうと、かつて現実を構成していたものが、ただの夢想として、一度も存在しなかった過去として、より正確には、一度も存在しなかった過去における未来として、行き止まりに突き当たり、そのまま闇の中で一歩も進まず、永遠に取り残されてしまいます。そして進み続ける時の中から、まるで下半分だけを控えめに占める憧憬のように、遠くおぼろげなものとして去っていきます。
震災がもたらしたものは、単に物質的な破壊ということではありません。モノはイマジネールな延長体であり、破壊されても再建することが出来ます。最も恐ろしいのは、現実を構成していたフィクションが破壊されることです。現実とフィクションは常に合わせて一つです。物質的な形を持たないが故に、壊そうとして壊すことの出来ないものが壊されてしまった時、過去は一度も存在しなかったことにされ、人は本当に、取り返すことのできない喪失に見舞われるのです。
畠山氏の文章、毛布にくるまる三人の風景が遠ざかっていく様は、内田百閒の小説のようで、静かに身体が凍りついていくようでした。
わたしは直接的には東北と縁もなく、そもそも友人もほとんどいないため、死んで胸に響く人間など片手の指で足りるほどしか思い当たりません。家族を亡くした時すら、率直に言って、何かそらぞらしい、茫漠とした感じしか受けませんでした。
恐ろしいのは、人の死でも、自らの死でもありません。
ある過去が、一度も存在しなかったことになる、世界が書き割りになって崩れ去っていく時です。
わたしは主の御名を唱える。思い出すために。あの体育館の風景の中に、自ら土と骨になって至り着くために。あの毛布の中に帰れるなら、肉体が滅びることが何だろうか。