ドゥアーの文句の中によくأعوذ بكلمات الله التامات من شر ما خلقといったフレーズがありますし、またسورة الفلق でもمن شر ما خلقと言います。つまり主に対して、主の作られた悪よりお守り下さい、と救いを求めている訳です1。
非常に素朴に考えて、それくらいなら最初から悪など作らないでくれた方が助かりますし、地雷を埋めた人に「地雷から守って下さい」と言っているようで、ちょっと変なようにも思えます。
しかし当たり前ですが、悪だろうがヘチマだろうが、主以外の何が創られた訳でもない以上、主がお創りになったのでしょう。
これは結構大切なことで、良いことも悪いことも全部織り込み済み、ということです。
「こんな酷いことが起こるなんて、神も仏もない!」といった表現がありますが、酷いことも悪いことも、全部主に帰されるものとして最初から織り込み済みです。何が起ころうが関係ありません。
もしこれが主以外の何者かとか、ユダヤの陰謀とかによって起こされているなら、わたしだって到底許せませんが、主が行われていることですから、理由は知りませんが、何か意味があるのでしょう。
正確に言えば、それが「何か意味があるのだろう」と考えるより他にない位置において、主は存在します。この順序で考えた方が、ストンと落ち易いかと思います。「主とは何か」を考えるのに、この方向(多分普通と逆方向)からトンネルを掘っていく、という意味です。
そのどうしようもない消失点、光源のようなところが主の場所です。
人生、良いことも悪いこともありますが、良いとか悪いというのはあくまで人間の基準であって、相対的なものです。同じ人間にとってすら、塞翁が馬ということもあるでしょう。
それらすべてを良かれと引き受ける、どう考えても矛盾した場所において主を考える、ということです。
大切な人が亡くなったりしたら、誰だって嘆き悲しみ、神様を恨みたくもなるでしょう。
繰り返しますが、それが主以外の何者かによるのだとしたら、到底容認できません。仇討ちの一つもするべきです。
少なくともわたしには、これを主の慈しみとして捉えるより他に、うまく収めるやり方が見当たりません。
もっと言ってしまえば、わたしの存在自体、わたしの人生に起こるすべての苦しみの根源です。
その出発点を与えたのが単なる両親の気まぐれだとするなら、到底容認することはできません。全くもって中二病的な発想ですが、「なんで産んだんだ!」と考えても、それはそれで分かります。わたし自身、リアル中二な頃にそういう考えを持ったこともありますし、今でも理屈自体としては一応の筋が通っていると思っています(独我論を始め、中二的発想は、屁理屈自体としては一応筋が通っているものが多いし、この点は重要だ)。生まれなければ、喜びもないでしょうが、喜ぶ主体がそもそも存在しないのですから、行って来いで差し引きゼロです。面倒くさいことがない分、最初から生まれておかないのが一番楽です。
この諸悪の根源を作ったのが、たかが人間風情だとしたら、わたしなら全く許せません。
主のはからいだと考えれば、わたしにはサッパリわかりませんが、主にとっては何か都合の良いことだったのだろう、と納得できます。細かいところは色々と釈然としないのですが、正しく生きていれば死んでから質問できるんじゃないかと期待しています。
そんなはからいによって望みもしないのに引きずり出されてきたわたしを産み育ててくれたのが両親なのだとすれば、人類皆拾いっ子みたいなものですから、これは親というのは有難いものだ、とも思えます。その当の両親自身がそうした捉え方ができず、自らの意によって子を生み出したと思っているなら、なかなか素直な気持ちでは向き合いにくいですが、とりあえず憎悪することはないです。
この世界に存在するものはすべて「良い」ものだと思っていますが、それは「主にとって」良いというだけの話で、わたしにとっても誰にとっても、良いこともあれば悪いこともあるでしょう。
良いことも悪いこともありますが、それらすべてを「良し」とする位置が存在し、しかし一体どこをどう「良し」とするものやらは、さっぱり分かりません。
だからこれを分かったところで特に何も起こらない、至って普通なことです。