症候とは排水口の髪の毛だ。
風呂の排水口に絡み付いて発見されるもの、それがわたしだ。
もちろん、そこにある残骸はゴミだ。「どうしようもないもの」だ。
一方で、紛れも無いこのわたしから生まれ出たもので、ついでに言えば、頭からだ。
取っても取っても排水口には髪の毛が貯まるし、それを止めようとしたら、風呂に入らないかわたしがいなくなるかしかない。
排水口の髪の毛は、わたしの影であり、見える世界の中に発見される残骸としてのわたしだ。
わたしは、この排水口の髪の毛と共に生きていくしかない。この髪の毛を止めようとしたら、わたしが死ぬしかないのだ。
ある者たちは、この症候と向き合い、風呂に入らないという戦略を取る。すると髪の毛は、風呂以外のあらゆるところに散らばり、より始末に終えない症候となり、しかも体も臭くなる。排水口に髪の毛を貯めないというのは、そういうことだ。
かといって、掃除をしないで放っておくこともできない。排水口が詰まってしまう。
一緒に生き、掃除し続けるしかないのだ。
わたしは生きている限りにおいて、排水口につまるわたしを掃除し続ける。
ところで普通、排水口に詰まる髪の毛というのは、わたしだけのものではない。家族の髪の毛も一緒だ。
そしてどれがわたしの髪の毛で、どれが家族の髪の毛なのかというのは、排水口にあってはもう区別がつかない。
だからこれは、わたしたち家族の症候だ。