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人々の目線と神様の目線

 ぼちぼち翻訳をアップしているアフマド・アル=イシーリーさんの『二冊目』ですが、先ほどアップした「人々を信じることについて」という章が面白いです。一部のムスリムが(彼はもちろん、エジプト人を想定してる)、宗教上の義務や信仰行為については実に立派なのに、社会的な倫理性については平気で酷い行いをすることについて、書かれたものです。
 短い文章なので読んでもらえば良いのですが、何が起こっても決して自分から失われないもの、つまり人々の見る自分の生き様というものこそ、最後に残る財産であり、その「他人の見た自分の姿」というものが悪いのに、神様だけは自分を良く見てくれている、などというのは甘すぎる、という批判です。多くのムスリム(別にムスリムに限らないですが)にとって、倫理性というのはまず信仰によって基礎づけられるものですが、狭義の「物質的」側面に拘泥して、礼拝や細かい服装や巡礼についてはうるさい癖に、社会道徳に悖るような態度は、アッラーから見てもNGな筈だろう、ということです。
 この批判は、エジプト人読者を想定に書かれていて、少なからぬエジプト人には共感を呼ぶものかと思います。また、多くの日本人にとっても「当たり前」の話でしょう。しかし「当たり前」であるが故に、特定の強い信仰を持たない(と称する)人々が多数派の地域では、筆者が想定していない受け取られ方をされる可能性があります。この文章は、かなりリスキーな側面があります。
 
 何が危険なのでしょうか。
 少し順序立てて書くと、彼はまず、自分が必ず死に、死なないまでにもいついかなる瞬間にも想定外の事態が起こったり、あるいは自分のちょっとしたミスが命取りになり、すべてが失われる、という恐怖について語ります。これは生きていること、時が流れることそれ自体に対する恐怖と言って良いでしょう(わたしは非常に共感します)。そしてその恐怖に対し少しでも安心を得ようとしたら、主が自分をどう見ていて下さっているかを知ることですが、それを明らかに知ることなどは勿論できません。
 ここで既に、少なからぬ日本人にとっては直感的に入ってきにくいポイントがあるのですが、よくよく自分を見つめ直してもらえれば、それほどトリッキーなことは言っていません。信仰と考えると大げさですが、すべてが失われても尚心穏やかでいる、心穏やかでいるのが無理にしても「まぁ仕方ないか、これも人生」と諦めるためには、それまでの人生を肯定的に眺められる必要があります。そこで人生を肯定できるなら、全部パーになって最悪死んでしまうにしても、いくらかの安心は得られるでしょう。そこで肯定してくれる主体として、イシーリー氏は最初に神様を挙げていて、おそらく多くのエジプト人ムスリムもそう考えるのですが、氏が書かれている通り、それだけではすんなり上手くいきません。正確には、ストレートには通りにくいです。なぜなら、神様が本当に肯定してくれているかどうかは、死んでみないと分からないからです。
 また、もう一つの問題もあります。神様に肯定して欲しいがばかりに、信仰の「物質的」側面、つまり礼拝やら服装やら巡礼やら斎戒やらといった面にばかり囚われ(これを「物質的」と表現することは非常に示唆的であり、是非よくその意味を考えて欲しい)、社会道徳や「人としての」真っ当さを失ってしまうケースがあるからです(エジプトではよくある)。
 そこで彼は、二つの見方を並べて見せて、それからその二つをもう一度合体させます。
 一つは「神様の目線」で、もう一つは「人々の目線」です。タイトルの「人々を信じる」には、「アッラーを信じる」と対比する意図が込められています。すべてが失われても、人々の目に映った自分の姿、自分の生き様というのは、(少なくともしばらくは)消えません。それこそが、本当に失われることのない財産であり、その財が人々にとって肯定的であるなら、自分自身を肯定できるだろう、ということです。そして、人々に嫌われて否定されているものが、アッラーにだけは都合よく肯定してもらえる訳がないじゃないか、という理屈です。
 つまり、「神様の目線」だけ考えると片手落ちになり、時にはトチ狂って変な方向に暴走してしまうので、「神様」と「人々」の二つの目をもって考えなさい、というお話です。繰り返しますが、これは基本的に、「神様の目線」が第一にある人達に向けて書かれた文章です。
 すぐさま、いくつもの疑問が浮かびます。
 まず第一に、人々に否定され、アッラーに肯定されるケースがない訳ではないはずです。本当のところは勿論知りませんが、例えば冤罪をかけられて誰にも認めてもらえないまま死んだ人を、アッラーが見逃しているとは思えません(勿論何らかの人知を越える理由によってアッラーも敢えて見逃すという可能性は常にある!)。まぁ、この点については、この文章の想定する文化圏では言うまでもなことなので、単に省いたのでしょう。
 第二のポイントこそがわたしたちにとってクリティカルなのですが、この二つの目線のうち、「人々の目線」の方は、ほとんどの日本人にとっては自明のお話です。少なくとも、こっちの目線にとって「良き」ものたろう、という意識と行動においては、平均的日本人は平均的エジプト人よりも(もしかすると平均的ムスリムよりも)ずっと「真っ当」ではないかと思います。ただ、そういう人々の多くは、こっちの目線だけを考えていて、「神様の目線」なんてそもそも要らないんじゃないか、一体どういう必要性があるんだ、と考えるでしょう。そもそも、イシーリー氏の言うように、二つの目線の評価が最終的にそれほど変わらないのなら(冤罪の例のような特殊なケースは除く)、神様の方はあってもなくても一緒じゃないか、無駄じゃないか、というわけです。
 一部のエジプト人が「神様の目線」だけなのに対し、少なからぬ日本人が「人々の目線」だけで、対称形になっているようなのですが、「人々」組の方の人たちは、そもそももう一つの目線のことなど、全然必要ないと思っているです。
 これはまことにごもっともなお話で、(少なからぬムスリム同胞諸兄には申し訳ないですが)筋が通っていると思います。
 
 実際のところこれは、わたしたちのように「世俗的」「近代的」社会に生まれ育ったムスリム(あるいは他の宗教の信徒でも)にとって、とても大事でクリティカルな問題です。「そんなもん要らんやん」と言われたら、お終いなのです。
 ここで何か正面から言い返せば、ムスリム諸兄の小さな拍手くらいは得られるのかもしれませんし、また実際、そういう言説というのは沢山あります。「日本では自殺が多いが、信仰があればそれを防げるんじゃないか」といった類の話です。
 しかしわたしとしては、そういった言説には全く与する気はありません。それどころか「アホか、大きなお世話だ」と確信しています。
 こういう発想というのは、信仰というのを大型テレビか何かと勘違いしていて、小さなテレビでもテレビは見られるけれど、大きなテレビだとグッと大迫力になって人生充実、みたいなオプションとして扱っているのです。まぁ実際、大きなテレビがあると何かと良いのかもしれませんが、少なくともわたしは、そんな贅沢品みたいな信仰なら要りません。うち狭いですから。
 この手の「信仰があると○○もゲットできる!」系のお話というのは、イシーリーさんの言葉遣いで言えばそれこそ「物質的」なものであって、○○がご利益なら論外ですが、心の安寧とかスピリチュアル臭いものであっても、まったくもって「物質的」です。形容矛盾みたいですが、「スピリチュアル」は「物質的」です。
 もちろん、心の安寧があっていけないものではないです。わたしだって大迫力大画面でテレビを見られるなら、そっちの方が嬉しいです。しかしそれは、あくまでオマケであって、ことの本質ではありません。
 何が問題かと言えば、信仰というのを「付加物」として捉えていることです。
 あってもなくてもいいけど、あると嬉しい、そういうオプションのように捉えていることです。
 この点についても何度も書いていて、もし興味があれば「小っさなムスリムに話しかける」あたりを参照して頂けると嬉しいのですが(他にももっと良いものがあった気もしますが、覚えていません)、信仰について重要なポイントの一つとして、外からやってくるのではなく、はじめから自分の中にあるものとして「発見」される、ということがあります。断言しましたが、本当は違うのかもしれません。わたしは宗教家でも専門家でも何でもないので、どこぞの法学者は全然違うことを言って、そっちが「正しい」のかもしれませんが、わたしはこの考えで合っていると勝手に決めつけています。
 元々「シューキョーくさい」ことが好きな人なら、オプション的に外からやって来るものでも良いのかもしれないし、そういう人達の信仰を否定する気は毛頭ありませんが、少なくともその考えでは、「シューキョー」なんて余計なものにしか見えない人々にはまったく届きません。そしてわたし自身、元々はまるっきりそっち側の人間なので、そんなオプションのような宗教ならお断りです。
 ですから、これはわたしとある程度共通点のある人に向けてだけ言っていて、オプション式というか、「いかにも」なシューキョーの好きな方は、信仰心を守るためにも即座に読むのをやめて欲しいのですが、そうではない人については、もうすっかり、そういう「いかにも」な外から来るシューキョーのことは一回忘れて欲しいです。そして、自分自身の中に徹底的に懐疑をもって切り込み、何か依然として疑い得ない、「知らない間に信じてしまっているらしい」ものと向き合って欲しいです。多分、そこが核であって、はじめから内側にあるものです。それをどういう形でいわゆるところの宗教の中で考えるかは、二の次三の次だと思っています。
 わたし自身が具体的にイスラームというものと関わるようになったのは、単に蓄積の中から学べるものがあると感じたこと、無理やりにでも内側に身をおいて、その中で問いながらぼちぼち生きていきたい、と思ったからです。はっきり言って、それがイヤなら別段狭義の宗教とかどうでもいいとすら思っています。実際上は、一度きりの人生なので、まぁとりあえず入ってみてやりながら考えた方が捨て鉢というか、オトコマエで面白いんちゃう、とは思っていますが。
 
 イシーリー氏はエジプト人を対象に書いているので、「神様の目線」の方は、当たり前すぎることとして詳述しません。しかし、一周回って、逆側から見ている人についても、そこであまり言葉を尽くすべきではないとも言えます。つまり、「当たり前」で良い、逆に言えば、「当たり前」のものは何か、と潜っていって発見されるものとしての信仰でないと、大型テレビとどっこいどっこいだということです。
 
 例によって言葉を尽くせていないし、どれほどの人に届いたか分かりませんが、一つお願いしたいのは、「人間の目線」が強調されているからといって、そこで考えを止めないで欲しい、ということです。エジプト人であれば、放っておいても神様サイドは見捨てないので大丈夫なのですが、日本語に訳してしまった責任として、そこで止められると筆者の本意ではありません(また、少なからぬ日本人ムスリムにとっても残念な結果なはず)。そして何より、一番面白いところを見逃してしまいます。
 いつでも、当たり前すぎて言葉にされないものが、一番スリリングなのです。

kharuuf

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