誰でも嫌われるよりは「他人にとって良い人」でありたいが、どういう相手として良いかは、人によって違うし、関係によっても違う。家族にしたい人、友達にしたい人、隣人にしたい人、先生にしたい人。あるいは、電車で隣合わせるのに都合の良い人。
普通は、それぞれの局面で相応しい態度をとることで、その状況での「相応しい人」になるわけだけれど、全部を完璧にこなせる人というのはなかなかいなくて、大抵は得意な分野と苦手な分野があるものだろう。
ある種の状況が長く続くことで、その状況に最適化してしまうということもあるだろう。
電車で隣り合わせるような関係ばかりが続いたら、電車で隣り合わせるの良い人になるかもしれない。そして電車で隣り合わせるのに良い人ばかりだったら、関係は電車で隣り合わせるようなものになっていくだろう。
それはそれで悪くはない。電車で隣り合わせている分には。
しかし隣人というものは、そもそもの初めからなかったかのように失われるかもしれない。
ある種の世界には、電車で隣り合わせるには嬉しくない人が沢山いる。しかしこの人達も、別の局面では良い人達かもしれない。
ある種の世界には、電車で隣り合わせるにはとても良い人達で満たされている。あまりに良い人達なので、世界は電車のようになってしまった。
電車はとても良いもので、とても名残が惜しいのだけれど、それでもやはり、わたしは電車には住みたくない。
しかしわたし自身、多分、電車で隣り合わせる分には都合の良い人間だ。電車から降りるには、多少電車適性を損なってでも、隣人の作法を覚えないといけない。そんな作法を覚えても、隣人のない世界では疎ましがられるだけだし、無駄かもしない。いや、間違いなく無駄で、一度電車になってしまった世界は、もうずっと電車のまま、どこかへ走りさってしまうに違いない。
そんなことを考えて、最近とても気が重い。
電車はとても素敵だけれど、住み着かずにどこかで降りないと、きっと取り返しのつかないことになる。