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『ことばと国家』田中克彦

ことばと国家 (岩波新書)
田中 克彦
岩波書店 1981-11

 『言語的近代を超えて』のエントリで触れた「言語の政治性」を巡る、秀逸なテクスト。
 言語アイデンティティとは、近代の形成にあたり、宗教アイデンティティに代わりヨーロッパが利用したもの、つまり国民国家という概念と切っても切れない関係にありますが、言語・民族・人種などがほぼ一様である特異な国に暮らしていると、こうした言語の持つ政治的側面を見落としてしまいがちです。

ことばはつねに社会的であるかそれは、国家や民族をはなれてかたちをとることはできない。いな、国家は方言をすりつぶしたり、あるいは逆に方言を国家語へ造成したりするのである。そうして、あらゆる言語や方言は、その言語内的な特質をたずさえつつ、言語外的な磁場のなかに置かれているのである。

 「最後の授業」の美談が教科書から消えたのは、本書著者の指摘があったからのようです。つまり「フランス語万歳!」と叫んだあのお話の舞台アルザス地方の「地元の言葉」は、中央集権的なフランス語ではなく、「ドイツ語に似た言語」であるアルザスことばであり、「最後の授業」はドイツの侵略に対し言語アイデンティティを守ろうとする美談などでは決してない(先生にとってだけ美談)、ということです。
 ここで敢えて「アルザスことば」という変な言い方をしましたが、ある言葉を「言語」とするか「方言」とするかが、既に政治的領域に属しています。「方言」として下位カテゴリに取り込むことが中央集権的であるのは言わずもがなですが、逆に、例えば米占領から日本への返還を求める時代の沖縄の立場であるとしたら、彼らの言葉を「琉球語」としてしまうよりは、「日本語沖縄方言」と主張する方が、彼らの政治的意図には都合が良いことになります(もちろん、沖縄独立を求める人々なら、違う考え方をするでしょう)。 「言語/方言」というと、個人的にはアラビア語のフォスハーとアーンミーヤの関係をつい想起してしまいます。この二つの「ことば」は、日本人の感覚で言うところの「標準語/方言」とはかけ離れていて、むしろ中世ヨーロッパにおけるラテン語とフランス語のような関係にあります。ですから、外国人としてはむしろアーンミーヤを「言語」と呼びたくなってしまうのですが、以前にエジプト人の先生に「違う、方言だ」と訂正されたことがありました。彼はアラビア語の先生なくらいですから、フォスハーをこよなく愛する男であって、アーンミーヤなどというのはあくまで崩れた「方言」だ、と言いたかったのでしょう。ここにも、「言語/方言」という文節の端的に政治性が表れています。
 本書では、「言語/方言」について、こうした基本的事項の他にも面白い指摘が見られます。

ことばは、他のもう一つのことばに近ければ近いほど、すなわちもう一つの言語の聞き手に理解されればされるほどさげすまれるようになっている。方言がさげすまれるのは、それがある程度はわかるからである。方言で話すとよくわからないから、標準語ではなさねばならないというのは、だから半分はウソである。

 言語の政治性というと、「外来語」の問題があります。
 言うまでもなく「純粋な言語」などいうものは存在せず、「言語/方言」関係における「正しい言語」と同様、外来語の排除はネイションという仮構の構築と並行的なわけですが、だからといって、この志向を全否定することもできません。言語アイデンティティは、わたしたち一人ひとりに既に内面化されているわけで、「純粋さ」を求める力と交配し雑種化しようとする力の、両方が個々人に内在していると考えるべきでしょう。
 また、単純にプラグマティックに考えた場合でも、安易な外来語の導入は言葉を「わかりにくく」させます。外国人が見た時、特にことの「外来語のわかりにくさ」は際立ちます。その言語本来の構造と調和していない(あるいは「まだ」調和していない)からです。
 日本語の「カタカナ英語」がしばしば外国人日本語学習者を苦しめるのは知られた話ですが、アラビア語のテクストの中に英語由来の単語が入っている時も、本当にわかりにくいです。「語根どれなの??」と散々悩んだ挙句、単なる音写だったりすると、ガッカリします。
 この点について、本書で引用されている1973年当時の西ドイツ大統領グスタフ・ハイネマンの言葉が、なかなか素敵です。

この数年来、私は書いたり話したりする機会があるごとに、外来語を使うかわりに、なるべくドイツ語を使いなさいと言ってきました。私がそう言うのは、特別な民族感情としてではなく、むしろ、誰にでもわかるようにとの気持からです。私にとってこれほど大切な役割はないと思われるのは、いわゆる教養のある階層と、我らの住民の広範な大衆のあいだの溝を乗り越えることです。もしそんな溝ができたら、民主主義にとってたいへん危険なことだからです。

 この台詞がどこかの「文化人」の口から発せられたものなら、別段注目もしませんが、一国の大統領としてこうした発言をするには、相当な器が求められる気がします。

 もう一つ、外来語についての面白い指摘がありました。

日本語においては、外来語であることを示す特別な文字があるために、ある語が外来語であるという意識はこの文字を通じて残されやすく、逆に漢字で書かれれば、その前歴は帳消しにされるのである。しかし同じ一つの文字で表記しなければならないヨーロッパの諸語では、同化の課程は早い。

 確かに、カタカナというのは、非常に特異なポジションにある文字です。
 「アルファベット」が三つある、というだけでも変な言語ですが、カタカナというのは、現代日本語の文脈では主に外来語を表し、何かを少し距離を置いて見る時、ある言葉から敢えて意味を剥奪し、モノのようにポンと置きたい時に使われます。日本文化における「内/外」の概念と相応するようで、とても興味深いです。
 日本という国は、他国による植民地化をほぼ経験していないにも関わらず、他国のモノマネが上手で、「植民地以上に植民地らしい」面がありますが、カタカナの持つような「日本語にあって日本語にあらず」「内にあるけれど実は外」なシステムが、これと関係しているかもしれません。つまり、普通であれば中に入られてしまった時点で既に侵食されているわけですが、「カタカナ的」な方便(文化的な位置づけ方法)があると、「中に入れているけれどまだまだ外」という、奇妙な心理的担保が得られる、というわけです。
 植民地以上に植民地的な日本の人々が、それでも別段アイデンティティの危機を抱かないのには、良くも悪くもこうした機構が働いているのかもしれません。

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