今更言うまでもないことだけれど、結局、本当のことを書いているか、ということだ。それは現実なのか。
もちろん、フィクションとノンフィクションなどということではまったくない。もっと言ってしまえば、いわゆる「ノンフィクション」なるものは眼中にもない(しかしある種のノンフィクションには確かに本当のことが書かれているだろう、記録という意味ではなく)。
問題は、本当のことを書く手段が沢山あって、かつ手段と内容が必ずしも明瞭に弁別されていないことだ。というより、それらが弁別可能である、というフィクションに依りたっているものはすべて本当ではない。狭い意味での娯楽という以上のものはないだろう(娯楽がいけないとは思わないが)。
今ひとつには、わたしたちはわたしたち自身が今本当のことを書いているのか、それを知ることができない、という問題がある。知ることが可能である、というフィクションに依りたったものにも、本当のものは一つもない。
知ることのできない五里霧中の中で、自由落下しながら演じるパフォーマンスのような芸をどこまで極められるか、という話だ。空中で踊ろうが泣こうが落ちるものは落ちる。そこは変わらない。落ちればたぶん死ぬだろう。
翻せば、知ることはできないが、できることが一つもないわけではない。笑ったり泣いたりくらいはできる。架空のラインをもうけて、それに対して誠実さを示すこともできる。
結果、その真実が伝わるかどうかはわからない。大抵は伝わらないだろう。最も伝えうる人に伝えられれば、自我とも人びととも違う何かに尽くしたことになるだろう。
我らは尽くすために創られている。
وَمَا خَلَقْتُ الْجِنَّ وَالْإِنسَ إِلَّا لِيَعْبُدُونِ