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『外国人とのコミュニケーション』J.V. ネウストプニー 言いたいこと、外国語、礼節のコード

 英語圏で日本語を教えるチェコ生まれの言語学者による、コミュニケーション論。飛びぬけて新奇なところがあるわけではないですが、目の付け所が非常に精密です。翻訳ではなくこの美文を書き上げる言語能力に裏打ちされた、時に少し手厳しい論調が魅力。
 いくつか気になった箇所のみメモしておきます。

 私たちは、「言いたいことがある時にそれを言う」と信じこんでいるが、実は、コミュニケーションはそんな簡単なものではない。私たちは言いたいことがあっても、妻にも全部は話さないし、また言いたいことがなくても、はなさなければならないこともある。わたしの祖父は帰宅後は、特に伝えたい内容がなければ、黙っていてもよかった。ところが、時代の変遷により、父も私も、もし話さないと、「怒って話さない」と解釈されるので、帰宅したら、必ず話さなければならない。

 どちらかといえば、手紙の場合、文法の間違いはそれほど問題にならない。しかし、形のルールへの違反を深刻に見る必要があるのは二つの理由による。
 第一に、このようなルールに関しては、ネーティブスピーカーもしばしば間違いを起こすことである。スペルについても同様であるが、中産階級の英語人は、成人によるこの種類の誤用をなかなかひいき目で見ることができない。
 第二には、このようなルールはていねいさと強くからみ合う。名前や正しいタイトルを使わないのは、ただ無教養の結果と見られるだけではなく、失礼な行動にもなるのである。

 これは手紙の形式やタイトル(ドクターとかミスターとか)の使い方についての下りにあったものですが、「ネイティヴスピーカーも犯すことがある」過ちの方が、より深刻な結果を招く可能性がある、というのはとても興味深い指摘です。日本語の非ネイティヴと接する時の自分をイメージすると、納得がいきます。
 「ネイティヴであれば絶対に犯さない」ミスを外国人が犯した場合、わたしたちは「外国人だから」というひいき目を働かせて解釈します。例えば、日本語の助詞の「は」と「が」は、外国人にはなかなか使い分けが難しいポイントですが(日本人も大抵はキチンと説明できない)、ネイティヴであれば絶対に間違えません。そういう箇所を外国人が間違えていても、悪意や非礼として受け取られるケースはまずないでしょう。
 しかし、ネイティヴでも間違えるような箇所、敬語や敬称の使い方が間違っていると、生理的な反応が先に立ってしまうようです。下手に文法がしっかりしていたりすると、余計に「エラー」ではなく「非礼」として受け取られてしまう率が上がります。

 ここで重要なのは、礼節のような社会的コード、コード内容自体には意味がないにも関わらず、交換されること自体により社会をドライブしているコードとは、「間違えられる可能性のあるコード」だということです。間違える可能性が絶対ないもの、あるいは、間違えたとしたら価値判断以前に統語論的なエラーとされるもの、そうしたものは「礼節コード」に採用されないのです。コードそれ自体は無意味ですから、「間違えることもあるが、今回はキチンとできていた」という形で、背後に隠された暗黙的な失敗可能性自体は、コードに貨幣のような流動性を与えているのです。
 多分、誰かが初めにとんでもない「非礼」を犯したのです。その穴を埋めるべく、礼節の圧力が交換され続けているのです。

 sheとheという単語は、案外に使いにくい。というのは、英語も含め、ヨーロッパの諸言語で、その場面にいる人については、sheとheという代名詞を使うことはほとんど許されていないからである。特に前者を使い、たとえばそばに立っている友人についてshe came yesterdayのようなことをいのは相当に失礼である。この場合は、名前を使ったり(Jane came yesterday)、本人を話し相手にしたり(You came yesterday, didn’t you?)して、言い方を変える。
 このルールをまだ知らない子どもがよくなおされ、motherなどと言わせられる。そのとき英語では”She” is the cat’s motherということわざがある。つまり、sheは、猫のお母さんなら使っていいだろうが、自分のお母さんについては使ってはいけないよ、という意味である。

 この他、まだ日本語に習熟していない外国人が、とりたてて趣味もないのに趣味を尋ねられ「チェスと、チェ、チェ、チェ、チェスと、ピンポン」と言ってしまう場面など、印象的です。言葉がうまく出てこなくて、言いたくもないことを言ってしまう。あります、そういうこと(笑)。
 母国語でもパニクると同様のことがありますから、気にしないで喋ったら良いと思いますが、あの「こんなことが言いたいんじゃないのに、もう止まらない」時の、自分が遠くへ行ってしまう感じ、喋っているのは自分なのに、自分が置いてけぼりにされている感じ、あの寂寥感というのはたまりませんね。

 しかし最後に一つ言っておけば、母国語だとしても、わたしたちは「置いてけぼり」にされているのです。何かを置いたからこそ、かろうじて喋れているのです。正確には、常に既に喋りに巻き込まれていて、ふと振り返った時に、何かが置き去りにされています。この時初めて、何か「言いたいこと」が発見されるのです。「言いたいこと」は、言えてしまっている時には見つかりません。誰かが置き去りにされ、そこに欲望が発見された時だけ、「言いたいこと」があるのです。

kharuuf

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