「投資は宗教と同じ」とか「○○は科学を称しているがあんなものは宗教と同じだ」という時の「宗教と同じ」は、論理的決着のつく見込みのない水掛け論を指して「神学論争」と言ったり、「○○のメッカ」などというのと一緒で、単なる慣用表現に過ぎない。しかし、これが慣用表現として成り立ち得るということは、いささか不気味ではある。
なぜなら、「宗教と同じ」の「宗教」とは、「検証可能性を明示できない信念体系を無条件に奉じる」ことを指しており、そのようなものの代表としての「宗教」概念が、広く共有されているということだからだ。
ただし、不気味だというのはこの「宗教」イメージではなく、その共有についてだ。このようなイメージが無条件に奉じられているとは、まったく「宗教と同じ」ではないか。
「宗教」に限らず、こうした大雑把なイメージが広く共有されている時、その対象について深く吟味されている可能性などほとんどない。こうした慣用法を軽々に用いる者たちは、例えばそれが「宗教」であるなら、宗教について何も知らないし、知らないままにただ「宗教のように」無条件に奉じているだけだ。
もちろんわたしたちは、大抵のことは深く吟味などしない。面倒くさいから、池上彰にでも喋らせて済ませておきたいのだ。
それを差し引いても、この「宗教」が広く流布し、何の遠慮も危機感も感じないまま使われているという状況はかなり特殊であるし、不気味な風景である。天皇制について語るのと同じ程度には、刺される恐ろしさがあるならともかく、多分そんな危機感は微塵もない。この「まるで宗教」のような風景は何だろうか。
わたしはイスラーム教徒だが、「宗教」など微塵も信じていない(いや、微塵くらいは信じているだろうか)。
ただし、それが信念体系(などという笑止千万なもの)ではないのと同じくらい、趣味好悪の対象とも異なる。
どちらにも誤読され得り、確かにどちらにも似ている要素はあるが、そこに取り違えた途端、最も重要なものは失われ、ついでにそれほど重要でないものたちもほとんど失われる。
ジャズは信念体系ではないが、ジャズ狂いにとってのジャズは、単なる好悪ですらない。例え他人から見てそれが趣味好悪のものに映ったとしても、その好悪を欲望したのは彼または彼女ではない。そんな甘い気持ちでジャズに一生は捧げられまい。
ジャズ狂いはジャズに呪われている。
そしてジャズ狂いにとって、ジャズは「音楽>ジャズ」などとカテゴライズされる一ジャンルでもない。
そんなつまらないものに一生を捧げたりする者がいるだろうか。
いや、いるのだろうし、そういう者たちが「宗教」を信じているのだろう。