これはつまり、わたしたち、人間だ。確かにほとんどの人は、発明家でも何でもないし、発明という件について何の関係もない。しかしそもそもの、人間における発明能力には、本当に驚かされる。この偉大な生き物は、飛行機やミサイルや人工衛星や電話や携帯やテレビやカメラや自動車や冷蔵庫やエレベータやインターネットを発明した。何たることだろう! 頭がおかしくなりそうだ。驚きのあまりおかしくなる、あるいは、嫉妬でおかしくなる。我らの種を永遠に魅了し続けるこれらの発明家に、先んずることができたら。嫉妬させられる。
自分にできないと感じないからなのか、わたしがこのことについて本当にそう思っているからなのか、分からないが、しかしこの世の発明家たちの成し遂げた多くの偉業は、かれらだけで成し遂げられるものではないだろう。間違いなく、インスピレーションだ。間違いなく、我らが主が介入されている。人間は、気を互いに組み合わせて箱を作り、そこにものを入れることはできるだろう。結構。また、丸い木を二つ箱の組み合わせて、その上に箱をつけて押すことはできるだろう。これまた結構。箱の前に木を二つつけて、それをロバか馬に結びつけて引かせることもできるだろう。結構結構。まったく素晴らしい、ブラボー。しかし「いや、ロバはお払い箱にして、ガソリンで動くモーターを付ける。ガソリンは地面の下から掘る。そうすれば車が勝手に走る」だって? いやいや、これは出来すぎだろう。
人間が、絵を習得するというのは、普通のことだ。自然の中に色の付いたものを沢山みつけ、そこから絵を描くための絵の具を作る、というのもあり得るだろう。描くための紙を作ることだって、できるだろう。これらはみんな、ありそうなことだ。しかし、何を言い出すか。「いや、絵を描くんじゃなくて写真を撮る」だって? その上、いやいやまだ十分じゃない、動く写真がいい、と来た。人間が、労苦の末に印刷機を発明した、というので沢山だ。何と偉大なことか。いや、十分じゃない、色付きで印刷できないと、フルカラーで、だって?
なんと厚かましいことか。厚かましいというのは、悪い意味ではない。厚かましい、ということで言いたいのは、ほとんどの人々が不可能だと思っていることをする、という意味だ。そもそも、ほとんどの人々、あるいはすべての人々が、思いつきもしないことを。
まったく個人的な考えだが、こうした種類の、この世に嫉妬を催す人々は、間違いなく、教えを受けている。この教えが、創造主以外の誰からやって来るだろう。
もし彼らが本当に教えを受けているなら、何たる幸運か。この世に最高位のブラボーと感謝を。もし彼らが教えを受けなかったら。