愛は、元来根本的に、ことのすべてだ。愛こそ、すべての問いの答えだ。
第一に、そもそもの始めに、主はわたしたちを愛によりお創りになった。
アーダムとハウワーを愛され、彼らを天国に住まわされた。彼らが過ちを犯した時は許され、彼らに美しい地上を選ばれた。わたしたちがそこで暮らしている、この地上を。そこで暮らし、栄えさせるために。
間違いなく、彼はわたしたちを愛されていた、わたしたちをこの地上の主とされた時。間違いなく、彼はわたしたちを愛されていた、わたしたちを考えることができ感じることができ喜ぶことができ笑うことができ歌うことができ音楽を奏でることができ絵を描き彩ることができるものとされた時。間違いなく、彼はわたしたちを愛されていた、わたしたちを考えるための知性あるものとして創造された時。これらすべては、無駄な訳がない。わたしたちがそこから学び、完成させるためなのだ。
間違いなく、彼はわたしたちを愛されていた、わたしたちをこのすべての美しさをもって創造された時。間違いなく、彼はわたしたちを愛されていた、わたしたちのために、例えばこの果物すべてを創られた時。例えば、ビタミンと抗酸化成分に満ちた果物を創られ、人々がそれを好み食べ益を得るよう、美味しく甘いものとされた時。甘いものが好きではない者たちのために、酸っぱいものも創られた。これほどのものがあろうか。
主はわたしたちにゴムの木を創られた。ガム、蜂蜜、牛乳、寒さのために羊毛を、暑さのために綿を。
讃えある至高なる御方が、わたしたちをお創りになったのは、すべて愛からのことだった。
創造の話はおいて、それ以降のことの話をするなら、といってもそれ程後のことではなく、これもまた創造なのだが、その後に続く段階のことだ。主がすべての生き物を、小さく弱く哀れで何も分からないようにされたのは、すべての母が子を愛するためだ。人間については、どんな他の生き物よりこの通りだが、それはすべての父もまた子を愛するためだ。そもそも、人間を温かい愛の営みから産まれるようにされたではないか。そして人間を、愛するたびに喜び、ただ嬉しいだけでなく幸せになるようにされた。憎むたびに、気が沈み消沈するようにされた。人間を、愛されてなければ病んで病気になり弱っていくようにされた。男女の愛のことではない、あらゆる愛だ。愛がなければならない。
もし主を愛さなければ、望むように信仰することもできないだろう。もし人々を愛さなければ、決して幸せになることはできないだろう。もし誰かを愛さなければ、常に何かを欠いているだろう。
この世のすべての悪が、もし愛があれば、その居場所などなくなる、ということは、簡単に分かるだろう。もし人々が祖国を愛するなら、国は幸せになり、恵まれるだろう。もし人々が人々を愛すれば、戦争も蔑みも不正も圧政もなくなるだろう。もし人々が大地を愛すれば、ずっと美しいままだっただろう。もし人々が神を愛すれば、人間はずっと良くなっていただろう。
この世界は愛より創造された。ただ愛だけが、それを生かす。