ドゥアー

 以前は、普通にしていた。つまり、ほとんどの人がしているのと同じようにしていた。自分ではどうやってやったものか分からないことや、誰にも頼めないことは、主に求めた。ドゥアーだ。おお主よ、お父さんが犬をくれるようにしてください。余り勉強しませんでしたが、おお主よ、どうかこの学年をうまくやらせてください。おお主よ、誰それがわたしを好きになるようにしてください。おお主よ、この仕事を下さい。おお主よ、この旅行に行かせて下さい。おお主よ、車が欲しいです。などなどだ。
 ドゥアーし、ドゥアーし、ドゥアーし、それから時に欲しいものを手に入れ、時にはそうでなかった。どのドゥアーがより実現されるものなのかも、分からない。
 こんな風に世の中を歩んできて、ドゥアーは信仰の核である、という預言者のハディースを人々が繰り返すのを聞いてきた。これは、わたしにとっても誠に筋の通ったことで、問題だとは思わない。ドゥアーは信仰の核だ。なぜなら、ドゥアーは、アッラーの運命を認めるもので、彼御一人だけが、このことやあのことを、成し遂げられる御方だと、ひれ伏すことだからだ。知れたことだ。それから三年ほどして、突然わたしは、とても簡単な真理に気づいた。わたしには、何が本当のところわたしにとって良いことなのか、知る術がない、ということだ。前に言ったことを全部撤回した。例えば、何かが起こるようにドゥアーし続けて、実際に起こってみたら、それが求めたものではなかったと分かる、そんなことがあるのに気づいた。あるいは、何かが起こるようにドゥアーして、それは起こらず、代わりに、わたしの知らなかったずっと良いことが起こる、というようなことに。何かが起こらないようにドゥアーし、それが起こる。それからしばらくして、それ以上のものなどない、ということに気付く。わたしは自分に言った。まったく、何も学んでこなかったのか? そして、生涯、特定のことがらを主に求めるのはやめよう、と決めた。主の良いと思われることがらを為されるよう、主が望まれるなら悪を遠ざけて頂くよう、正しいことに導いて下さるよう、わたしの心の悪と創造された悪から守って下さるよう、我が罪を赦して下さるよう、ただそれだけドゥアーしよう、と。
 ドゥアーが信仰の核なら、こういう種類のドゥアーこそが、千回のドゥアーより良い。わたしは、自分で決めた約束を守ることができた。その日から、わたしは特定のことを寛大なる主に求めてはいない。その寛大さにも関わらず。わたしは、自分がまったく何も知らず、讃えある御方こそが御存知であることを認めたのだ。その時から、ドゥアーは、ずっと美しく簡単で、心地良いものになった。