(いわゆる)愛について

 フェイスブックの僕のページに参加してくれている若者たちを対象に、ちょっとした調査をやってみた。未来の旦那さん、もしくは未来の花嫁さんに何を求めるか、というものだ。
 一時間ちょっとの間に125のコメントが寄せられ、その総てをきちんと読んだ。およそ90%の女性が、主を知っている(信仰心のある)男性、と答えた。これに対しある男性が「俺たちはみんな主を知っているぞ」と言うと、言葉だけじゃなく本当の意味で知っていないとダメ、と書き込みがあった。その中の何人かは「宗教を『正しく』適応すること」と言っていて、また何人かの男性と女声がこれを、信仰心を心や倫理性、態度に表せること、と説明していた。ある人達は、生涯の伴侶は「敬虔であるが、極端に走ることはない人が望ましい」と言った。
 ムハッガバ(ヒジャーブをかぶっている女性)であることを条件にあげた男性はいなかった(しかしほとんどの女性はムハッガバなので、ほとんどの男性はムハッガバと結婚することになる)。何人もの男性が、「石頭ではないこと」と言っていた。ある男性は「物静かだけれど、冷たくはない人」とコメントした。
 ある男性が「条件は二つだけ、結婚以前に関係を持ったことがないこと、男性の友人がいないこと」と言った。
 その他いろいろな長所について、多くの人が発言した。優しい、忠実、男らしい、気高い、育ちが良い。ユーモアがあること、と多くの人が言い、教養があること、というのは五人だけだった。ある一人の女性が「読書家であること」と書くと、他の女性も賛同していた。多くの女性が「喫煙しないこと」を挙げた。また「真剣な人」という女性が多くいた(だが、真剣というのがどういうことなのかは、今ひとつはっきりしない)。
 いくらかの人たち(比率としては多くない)が、そもそも理想の男性だの女性だのといった質問自体が気に食わない、とコメントした。一緒に暮らしてみないと分からないことが沢山あるし、条件を示したところで、それが本当に満たされているかどうか、外見だけから判断するのは不可能だ、という。またある人たちは、こうした要求は大抵理想的で、必要ないし現実的ではない、と言った。
 まず第一に、この質問を始めたのは僕自身であるにも関わらず、こんなものはそもそも成り立たないと思っている。条件をいくらか思い描いて、それに一致する人に出会ったら即座に結婚する、なんてことはあり得ない。ぶっちゃけて言うと、そんなことが本当にあるのだが、それは結婚ではなくて商談だ。そういうことをする人が沢山いる。別に悪くはない。だがもったいないことだ。理想の車を探し求めて、見つかったら即効で買う、みたいな話だ。しかし人間は車でも物でも服でもない。人間は物ではないのだ。
 これが商談式のやり方の第一の問題点だ。誰か気に入る人にあたら、まず話すようになって、心がその人の方を向いて、その人のことを好きになって、一緒に暮らしたいと思うようになり、そして結婚する、と、こうでなくてはいけない(自然な成り行きとして)。こういう風に心が向いたならば、頭の中にあった条件に一致しているかどうかなどは、問題にならない。全然違うということだってある。それにも関わらず、よく分からない理由によって、好きになってしまうのだ。恋の炎だ。これこそ、この状態にぴったりの描写だろう。恋の炎。これは刺激的で楽しいもので、この世の他の何にも似ていないが、危険な欠点がある。頭がパーになってしまう、というヤツだ。この炎にすっかりやられてしまって、それがずっと続けばいい、と思うようになる。そうなると、もっと良い選択というのを取ることができなくなってしまう。だから、現時点での僕の考えとしては、もし恋の炎にまかれてしまったら、それが落ち着くまでちょっと待って、それからよく考えることだ(落ち着くというのは、すっかり死んでしまう、ということではない、ちょっと穏やかになって頭が働くようになる、ということだ)。恋の炎が落ち着いてくれば、この愛についてどうするか、真っ当な形で考えることができるようになる。続けられるか否か、良いことなのか否か、正しいか否か、うまくいくか否か。恋に落ちるということと、愛の関係、結婚、共同生活というのは、まったく別の話だ。
 運の良い人たちは、特に努力しないでも本当にふさわしい人との恋に落ちるが、これはラッキーな例だ。すべての人がこうな訳ではない。自分がラッキーかどうか分かるまでは、用心としてよく観察することだ。観察したおかげでうまくいくかもしれないし、少なくとも失敗して惨めな思いをしないで済むかもしれない。この段階でことを急ぐのは、大きな過ちだ。急いではダメだ。何を急ぐというのだ。よく観察するには、時間が要るのだ。この人はどう行動するだろう。これこれこうするみたいだ、これについて自分はこう思う、と評価して、相手に向かう自分の気持ちを調整する。これは良い、これは素晴らしい、これこそこの世で自分にとって一番大事なものだ、これは自分には無理、これは良くないけど変えられるかもしれない、これは良くないけど何とか一緒にやっていけるかも、等々だ。
 この反対が、そもそも存在すらしていない人物について、空想的な描写を加えることだ。そんなものは妄想と一緒だ。観察というのは、あなたが目の前にし、その目で見て、どうふるまうか目にし、聞き、評価する、ということだ。
 また、誰もが自分にとって一番有益なことは何か、分かっているつもりでいる。では、もし自分が間違っていると仮定してみてはどうだろう。ある人は、あなたが良いと思っている人よりもずっとあなたにとって良い性格を備えているのに、それが分かっていないのかもしれない。自分の掲げている条件が、論理的でなかったり、互いに矛盾しているとしたら。あなたが長所だと思っているその特徴が、実はむしろ短所なのに、分かっていないとしたら。あなたを本当に幸せにしてくれる人が、喫煙者だとしたら。でも、非喫煙者と結婚したいと思っていたら、そもそも彼と出会うこともできない。一番大事なのは煙草を吸わないことって、そりゃ何の話だ。運転手でも探してるのか。一度も男の子を見たことがないような女の子がいいとか言っている旦那方(そういう旦那は沢山いるのだけれど)ときたら、もう何を言って良いやら。
 まあそれは置いておこう。条件が譲れないというなら、それはなんとも世の中に甘えた話で、そういう条件を押し付けようということだ。人生を共にしたい相手に。まず鏡の前に行って良く見ることだ、そこにいるのが、自分が望むその女性に本当に相応しい男かどうか。自分の望むその男性に相応しくなるためには、何をしなければならないだろう? 自分はこうしたいけど、彼女はどうしたいだろう? こうして鏡に問いかけても、自分で答えるより他にないが、それでもとても重要だ。
 本当に努力している人たちは、このところ流行になっているような失敗した結婚はしないものだと思う。もちろん、最高に幸せとは言えない結婚はこれからもあり続ける。しかし失敗(酷い不幸を招くようなもの)は、必ずあるというものではない。こういう失敗は、お互いに受け付けない者同士の結婚で起こるものだからだ。そのことに気付けないから失敗するのだ。しかも気付くのは難しいことでもない。僕が人生を学問に捧げたいと思っているとして、あちこち遊びに行って人生を楽しみたい、という女性と結婚してうまくいくだろうか。とにかくお金が欲しくて、仕事中毒で、夜昼となく働きっぱなしの男が、ぬくもりある家庭とその家をいつもいい感じに満たしてくれる男性が欲しい女性とうまく行くわけがない。失敗して当然だ。どういう人が幸せにしてくれるのかを予想するのは、とても難しいことだ。幸せというのは、一朝一夕に成るものではなく、積み重ねの腕、安心と安定を経て得られるものだからかもしれない。誰が幸せにしてくれて誰がそうではないかなんてことは、知ることができないのかもしれない。でも誰だったら何とかなるかぐらい分かるし、その上で相応しい人を選べばいい。自分にとって相応しい人を、だ。
 僕は最近、父性というものについて考えている。だからこれについても言っておきたい。一緒になる人を選ぼうという時には、その人がただ伴侶となるだけではない、ということを気に止めないといけない。自分の子供たちの母親となるのだ。自分の子供たちの父親となるのだ。子供たちは彼から何を学ぶだろう?  彼女から何を得るだろう? 彼からどう理解するだろう? 何かはっきりしないことがあって、尋ねたいと思ったら、尋ねることだ。正にその時間なのだ。「いやいや、子供の話はまだ早いよ」なんて言わないで欲しい。新婚カップルは、結婚初年に子供をもうけることが一番多いのだ。残りの大部分も、次の年には子供をつくる。頭の中にあるだけのお話なんかじゃない。戯言を言っているわけじゃない、他の人たちがそうしているように、子供をもうけることになるのだ。間違っているもしれないが、このことを考えている人はあまりいないような気がするのだ。自分たちが父親や母親になり、探しているその相手がもう片方の親になる、ということを考えているのは、数少ない人なのではないか。
 いつの日か父親になり、子供たちが自分のことを、この世で最高で自分に最も近い人として、尊敬の眼差しで見ることになる、ということを理解しているなら、子供たちに尋ねられた時にどう答えるのか、子供たちの前でどう振る舞い、恥ずかしい思いをさせないようにするのか、そういうことに気を配れる筈だ。子供たちがこの世のすべてを学び、最初に知る人間となるのに、何を考えどう話し、何をこの世に求めるのか。
 ほとんどの人が希望の伴侶に求める条件について、かなりしばしば、それが彼ら自身の条件ではないと感じる。では誰のものなのか、というのははっきり分からないが、大抵の場合は、一緒にいる人々のものだろう。別にこれは罪でも何でもない。自分が何を望み、何を考えているのかを知るという義務を果たしていなければ、自然とこうなる話だ。誰でも己を知らなければならない、という、この義務を果たしていないなら。
 とりわけ結婚の場面に関する「周りの人」の影響は、実際、とても強いものだ。それはもちろん、アラブ社会における結婚が、家族の問題であるに他ならない。ほとんどの場合、当人だけで結婚相手を決めることにはならない。家族皆が納得し満足し、互いの家族を好きにならなければならないし、少なくとも、些細なことで喧嘩になって結婚が台無しになることはあるまい、と納得しないといけない。そして、家族の果たすこの大きな役割が、大きな問題を引き起こることになる。もちろん、経済的な役割もだ。
 西暦2010年現在に至るまで、どれだけの男性や女性が、二人とも良い仕事を持ち、それなりの給料を貰い、教育もあり育ちも良いのに、女性の父親が同じ階層の人に嫁がせたいというだかえで、結婚できないでいることか。なんと馬鹿げたことか。僕たちは一体、いつまでこんな話をしていればいいのか。全く酷い話だ。
 これに加え、皆が経験している挫折、哀れなエジプトの民が味わっている緊張感と汚染と喧騒がある。更に、ほとんどの人、とりわけ女性について、異性とやり取りする経験があまりない、あるいはまったくない、ということがある。おまけに男たちときたら、女の子についての小知恵を交換しあっている気になっているが、実際のところは、お互いを災厄に叩き込みあっている。本当のことを言えば、ことは大変難しいのだ。
 別に憂鬱にさせようっていう訳じゃない。でも、これは本当のことだと僕は思ってるし、言って分かってもらわなくちゃいけない。正しい決断を下すには、知識と率直さと集中力が必要だ。ことは本当に簡単ではないし、選択と決定のためには、観察と集中力が要なのだ。
 最後だが大事なことを言えば、ここまで書いてきたことはすべて、愛の関係で可能な限り成功するための保険として努力する、ということだ。否定はされまい。誰もが最後には、中に何があるか確信のもてないこの穴に飛び込むことになるのだ。羽毛のマットが敷いてあるかもしれないし、釘があるかもしれないし、何もないかもしれない(そこにあったものが、しばらくすると変わるということだってある)。
 恋の炎の後、飛び込む前によく考えるんだ。結婚するのであれそうでないのであれ、その愛を味わいよく知るために。この冒険を生きるために。この刺激で暗い穴の中に、飛び込まないといけないのだ。
 観察してもしなくても、選ぶことができてもできなくても、この穴に飛び込むことなしに、愛なしには、幸福というものはない。その愛が結婚の前であれ後であれ、その他なんであれ。男と女の間には愛がないといけない、幸せになるためには。
 愛は確かに混乱させられるもんだ。複雑で入り組んでぐちゃぐちゃな気持ちを沢山引き起こさせられる。まったくエライことだ。だから愛する時に何が起こるのか、よく知っておかないといけない。だが常に、その愛を選ぶ決断を下す時がある。その決断で幸せになるかもしれないし、不幸になるかもしれない。決むる時にはさかしくあれ。