(訳注:本章タイトルの「荷を運ぶロバ」は、「ロバは荷物を運んでいても何を運んでいるかわかっていない」、転じて「自分が何を言っているか分かっていない人」「深く考えずにわかりもしないことで他人の受け売りをする人」を指す)
神々と言えば、神々という考えこの世に誕生したことについては、一番に思いつくことがある(決定的なものではもちろんないが)。聞いてみて欲しい。
イクナートンに至るまで、啓典宗教以前の総ての古い宗教には、彼らの考え方を統べる基本的な考えが共通していた。複数の神だ(一人の神が創造を担っていると考えていたとしても)。人間は、生活の中の様々な事柄を専門とする神々に仕えていた。そうする必要があったのだと思う。とても悩み深いことがいつも起こっていて、この訳のわからなさの解決法として複数の神を発明したのだ。例えば、今年は農業が豊作で、たっぷり収穫できて食べ物も十分、備蓄も万全だったとしよう。ところがそれを羨む軍隊がやって来て、防御を踏みにじり彼らの軍隊を叩き潰し、女たちを奪い何もかも略奪する。あるいは洪水で半分の人々が死んだり、台風で何もかもが破壊される。「なんてことだ! 間違いなく、農業担当の神様は戦争の神様や自然の神様とは別だ。あっちは満足したけど、こっちのは満足していなかったんだ」。こんな具合に考えたのだと思う。そういう訳で、農業の神、家々の神、塩の神、美の神、雨の神、戦争の神、豊穣の神、と、人生のあらゆる重要な局面に応じて神ができた。神々は数を増していき(優先順位に応じて)、彼ら皆んなを満足させようとして、人々は満ち足りた。
これほどにも、人間が生きている環境というものは、考え方に影響する。これほどにも、人間が知っていると「考えて」いることが、真実へと変貌し、更にその上や周りに積み上がっていく。
と、ここまでは前置きだ。本題に入ろう。
至って自然なことだが、過酷な環境で暮らしている人々は、自動的に信仰心を増していくと思う。状況が苦しくなればなるほど、人々は神を求める。助けを求め、困難の中で救いとなる力を欲して。ここエジプトでは最近の三十年間、ますます著しくなる形で、(一目で分かることだが)違うことも起きている。神を求めるのえはなく、来世を求めるようになったのだ。もちろん、この違いは大きい。神の探求は、哲学的で実存的な旅であり、そn目的は神との交通を得ることだ。より良い種類の人間へと生まれ変わることでもあろう。神との交通を持つ人間は、神を愛するが故に仕える。運命を知るが故に、信じるが故に。片や、この世での仕事とは死後に「保険をかける」ことだと思っている人間は、僕にとっては明らかなことだが、神への愛ゆえにではなく、天国への渇望ゆえに、来世を求める(今ここで生きている地獄の代わりに!)。これは別段、悪いことというわけではない。第一に、この考えは人間が勝手に考えたものではなく、諸宗教が自分で提示しているものだ。第二に、人間は実際のところ、こういう風に創られている。利益を求めるように。しかし僕にとって問題なのは、これが大衆や、これ以上考えの及ばない教育のない人々に役立つにしても、深淵な希望や大志には至らない、ということだ。これより遠くまで見渡すことができる者なら、もっと遠くまで行かなくてはいけない、と僕は思う。少なくとも、そうしようと試みるべきだ。
天国という勝利、あるいは地獄から逃れるという成功は、目的として全く正当である。しかし、人間が「個人のレベルで」できることとしては「最良」ではない。神に向かう姿勢の背後にある意志が、神そのものを目的とするものではないのだから。
この世のすべての行いは、その背後にある意志や目的次第だ。僕の礼拝と、死に瀕した息子を救ってくださるよう祈る礼拝が同じというのは、僕にしてみれば筋が通らない。また、このどちらの礼拝も、100万ギニーが欲しいと祈る礼拝とは異なる。また、来世を望まずただ神への愛を傾ける修行者の礼拝とも違う。これらはすべて礼拝であり、またそれを評価する能力など僕たちは持ちあわせていないのだが。それでも、同じなどということはあり得ない。背後にある動機がまるで違うのだ。意志や動機と、良い結果が出ること、また結果の種類やその真価が結びついていることは、僕としては、全くもって絶対的なことだ。
また、天国に行きたかったり地獄を避けたかったりという、損得勘定の視点では、神の光には到達でないと、僕は考えている。望むなら生涯仕えることも、仔細な知識にわたり完全に傾倒することもできるだろうし、この信心のおかげで本当に天国に入れたり、地獄に行かないで済む、ということもあるかもしれない。すべてアッラー次第だ。しかし自分のことばかり考えていても、光にたどり着くことは不可能だ。重箱の隅をつつく様なことに囚われていては、大局を見ることはできない。確かに、宗教は細かいことで溢れている。しかし思うに、そこに囚われとなるためではない。そうではなく、これらの詳細をよく見ることで、考え方や、宗教がいかに物事を眺めるかを、学ぶためだ。主の下された宗教を学び、信じ従う時、それと同時に主の創られたこの世界を並べて見る。その時初めて、本当に主を知ろうとすることができるのだ。
宗教は目的ではない。アッラーに至るための手段だ。
このことを逆さまにしてみれば、僕たちの周りで起きていることは、宗教の内実を空っぽにし、主の報奨を集めることだけに関心を向けることだ。神を求める霊的な宗教の問題が、至極物質的なものに成り果ててしまった。そもそも宗教の最大の目的は魂を高めることであったのに、その宗教に関するすべてが物質的なものになってしまった。奇妙な断絶ではあるまいか。物質的な面が目立ち、尊大さ傲慢が幅をきかせる。霊的なことがらが脇に避けられ、それに見向きもしない歩みが踏みにじる。だからヒガーブが神聖化される一方、倫理性はないがしろにされているのだ。だから、礼拝の時にきちんと足を揃える一方で、仕事も勤勉もないがしろにされるのだ。だから良心が賄賂を許すのに、宗教的義務を怠ることは許さないのだ。だから酒が悪いことの筆頭にあげられ、怠慢は悲観主義や利己主義が見過ごされるのだ。だからアッサラームアライクムという挨拶がイスラームの最重要の柱のように扱われるのに、徳について考えないのだ。だから、僕たちの言っていることを耳にする人たちは、それを信じるかもしれないけれど、よくよく眺めてみれば、間違いなくびっくりする羽目になるのだ。
僕たちの国では、約半分の人々が貧困ライン以下の生活をしており、それより多くの残りの人々も、貧困ライン上で踊っている。にも関わらず、イスラーム世界全体で最も多くの人々がハッジやウムラ1に散財している。誰もここに酷い矛盾がないとは言うまい。食べるものがない人たちや、一部屋に十人暮らしている人々、生きるために腎臓を売る人々、こうした人たちがいるすぐ脇で、莫大な金額が毎年費やされている。それも彼らのお金だ。それで天国が保証されると考えているのだ。アル=アハラームの2009年11月27日の調査によると、2008年にエジプト人は、150億ギニーをハッジとウムラに費やし、そのうち110億はウムラだという。これは一年だけの数字だ。つまりウムラの概算費用は、十年間だけでも、1,100億ギニーを越えるのだ。一億の千倍だ。これに加え、多くの人々が二度以上ハッジに訪れている。毎年、毎年、毎年だ。これだけの人々がこんなことをするのは、イスラーム世界の中でも僕たちの国だけではないかと、ほぼ確信している。彼らは善行にも多くの金を使っているのだろうか。おそらく、いや、間違いなく。しかしそれよりもずっと大きな額、少なくとも120億ギニーを毎年使っているのだ(そしてハッジがなくなるということはない。この計算からは、まだハッジを済ませていなくて行こうと思っている人の30億ギニーは差し引かれている)。
主は自分のことにだけ心を砕くよう望まれているのだろうか、それとも互いに気をつかいあうようにだろうか。ハッジやウムラを繰り返すことが、貧しい子供たちに教育を与えたり、孤児を養育したり、慈善目的の作業所を開設し人を雇用したり、家を失い道で暮らす人々に家を建ててあげたり、足の不自由な人に車椅子を提供したり、目が不自由だけれど回復の望みのある人に手術を提供したり、治療費のない人々に医療を与えたり、そういったこと以上に天国を約束するのだろうか。僕の気に入っているエジプトの諺がある。現実的で人間的で知恵に満ちたその諺は、「家で要るものはモスクに無用2」だ。これが人々の仕事ではなく、政府の仕事だということはよく分かっている。それでも事実は事実だし、僕たちの状況が変わることもない。人々が苦しみ誰も解決できないでいる問題や危機が去るわけでもない。
どうしてこんな矛盾が起こるのか。考えなしだからだ。霊的なものを受け取っても、物質的なものに変えてしまうのだ。残念ながら、ほとんどの人々は窮屈な教えの中に閉じ込められて、そこからすべてを眺め、すべてを知ったような気になっている。
例えば、多くの人々が「集団礼拝は個人の礼拝より二十七倍良い」という理由で集団礼拝に参加している(だが、この二十七倍というのがどういう基準で出てきたのか、誰も分かっていない。ただ聖預言者の仰ったそのままに、そちらが良いということだ)。もしこの同じ人々が理解しようとしたならば、間違いなくもっと理解できるはずなのだが。イスラームにおける集団礼拝の推奨は(ものの例えとしてだが)、連帯と相互の結びつき、仲間意識を持ちそこから力を得る、そういうことではないのか。団結と公正と平等ということを学ぶためではないのか。ここで重要な問いがある。これらの人々や他の人々が、誰もその人たちのことを気にかけず考えないせいでいなくなってしまうとしたら、集団礼拝に同じ価値があるだろうか。
ここでちょっと面白い話をしよう。ある知り合いが、酷い一日を過ごした話だ。いろいろ用事やら役所での手続きやら、何でもお望みのいろんなことがあった挙句、車が壊れてタクシーに乗ることになった。それが酷い体験だった。用事の途中でタクシーにのり、運転手に「いい朝だね」と言うと、運転手がこういう時にお決まりの例の威圧的な調子で「ワアライクム・ッサラーム・ワラフマト・ラーヒ・ワバラカート」と返したのだ3。「なんだいそりゃ」と言うと、運転手がこう言った。「二十八のご利益があるからさ(運転手がした返事の文句の文字数)。しかも一つにつきご利益十倍なんだよ」。ちなみに、運転手は三十と言ったそうなのだが、僕が数えたところを二十八文字だった。最初の「ワ」4を取り除いて「アライクム・ッサラーム」といきなり始めれば二十七文字になる。それで友人はすっかり頭に来て、「そうかい、それならいい朝じゃない、クソみたいな朝だ!」と言って、ちょっとした喧嘩になってしまい、別のタクシーを探す羽目になった。それにしても、一体これは何だ。この男は文字の数だと。いやいや、自分で数えることすらせず、言われたままに言っているのだ。まるで、ご利益がないなら挨拶なんてするだけ無駄、とでも言うようだ。それなら、挨拶なんてしないで、運転している間じゅう、心の中で神の御名でも唱えていればいい。さぞかしご利益がたまることだろう。
サラームの挨拶が小競り合いになって喧嘩を呼ぶとは、どういうことだ。そもそもそれはサラーム5という名前なのに。これほどまでに、人間は自分がやっていることを分かっていないのだ。その意味や価値について考えないのだ。そして、いつでもただ一つのことを見ている。物質的な事柄だ。そもそもは、人間的で霊的なことがらだったのに。こうやって、自分が何をやっているのかが分からなくなっていくのだ。なぜ諸預言者の封印6は「サラーム(挨拶、平和)を広めよ」と仰ったのか。仲良くするためではないのか。挨拶をするなら、微笑んでニコニコするものだろう。そうでなければ、挨拶など地獄行きだ。そんなにしたくないなら、もう挨拶なんて結構だ。挨拶はご利益を集めるためにあるんじゃない。挨拶は、聡明なる預言者様が仰ったように、平安を広めるためのものだ。ちょうど昔の映画の、路地の場面のように。今でも古い地区ではいくらか見られるものだが、朝、男が道に出てきて、こう言うのだ。「最高の朝だね、アラビーおじさん、良い朝を、ミヌイムおじさん、あなたの一日が最高だといいね、ハマダーン」。路地や通りに出てくるすべての人に、こんな風に挨拶するのだ。挨拶が平安を広げる。ついでにご利益だってきっとあるだろう。もし微笑みと誠実さを伴っていたなら、間違いなくご利益一杯だ。
将来への不安、無知、無理解、相互理解の欠如、教育の腐敗、視野を狭める宗教的な説教、文化や意識の欠如、その他多くのものが、僕たちをこのグチャグチャで滅茶苦茶の大混乱の中に叩きこんでいる。大方そのせいで、現世からの逃亡だけが僕たちにできるすべてなのだ、いやそれこそが成すべきことなのだ、と考えるようになってしまったのだろう。人間社会に宗教があることで実現される基本的な効用というのは、宗教に従うことで、この世界を公正なものとすることではないのだろうか。そうすることで、創造主がお望みであれば、来世で報いられる筈だ。
言いたいことはこうだ。それが良いことや大事なこと、あるいは「神のもとから来たに違いない」ものであったとしても、考えなしにやっていたら、「荷を運ぶロバ」という、クルアーンにある素晴らしい表現と同じことになる。荷というのは、聖典のことだ。ロバは聖典を運ぶのであっても、干し草やイチゴやトウモロコシの籾殻と同じように運ぶ。全部同じように。
もし人々が罰を恐れ報酬を欲するためだけのために善行を為すのなら、それはとても残念なことだ。
アルバート・アインシュタイン