自然について

 自然と生き物としての僕らの関係というのは、まったく滅茶苦茶だ。酷いものだ。どうして地上に生きるほとんどの人々が、この関係の敵になってしまったのか。2008年、この星の歴史上初めて、年に住む人々が、自然の懐に抱かれて生きる人々より多くなった(200年前には31%だった)。この状態にあるもののほとんどは22の巨大都市にいる。そのどれもが一千万以上の人口を抱え、2015年にはいくつかが二千万に達する(2030年には、五人に三人が都市に住んでいる)。
 誰にとっても明白なのは、人類は何千年もの間、母なる自然のもとで問題なく暮らしてきたということだ。それから突然、小馬鹿にするようになった。人類は、歴史上初めて、この星を嘲るようになったのだ。だがこの星は、馬鹿にされて黙っているほどチョロイ相手ではない。必ず仕返しする。何もしなくても、無数の火山、地震、嵐、津波、伝染病があるのだ。初めから勝負にならない。ましてちょっかい出したりしたら、どういう目にあわされることか。
 すべての兆候とこの地で受けた教えを無視した人間は、決してその跡を拭うことのできない罪を犯し始めた。遠からず命を奪うかもしれない犯罪だ。人間は愚かにも自然を嘲り、自分のことなど分かってもいないと考えた。あるいは忘れてくれるだろうと考えて。そして欲しいものを追い求めた。工場を作り、石炭や石油を掘って際限なく燃やし、何百万年もかけて作られた秩序を弄び、動物を根絶やしにし、牛に抗生物質を与え、農作物に殺虫剤をかけ、そうしながら自然を忘れた。それなしでは生きていけない自然の地に都市を作り、最大の敵と転じさせた。
 人間の野心は強欲となり、現在に対する渇望が未来を忘れさせた。過ちを犯した者はその代価を支払う。あるいは、後から来たものがより大きな代価を支払うことになる。
 子供をもうけようと決めた時、僕にとって一番恐ろしかったのは、この星の将来だった。それでも僕は降参してしまった。心の中で「僕に何の関係がある? 子供たちは僕のものじゃない、主のものだ。彼らの運命、彼らが生きる世界の運命も、僕が責任を負うことじゃない。彼らの運命は彼らのものだ」と考えて、降参してしまったのだ。でも正直なところ、今までやってきたようなことをあと二十年、三十年、五十年と続けていたら、この世界はどうなってしまうのだろう、と考えると、彼らを巻き込んでしまったのではないかとも感じる。
 この件には悲観的になってしまうけれど、それでも小さな希望の光がある。数は少ないが、誇り高き純真な人々が、世界中にいる。救える限りのものを救おうとする人々が。アザラシ、鯨、パンダ、虎、ライオンに至るまで、そこに住むすべての生き物と共に、必死で環境を守ろうとする人々が。とにかく、蜂や蟻やその他の虫たちなどが命尽き、その名において警告を発している。確かに耳を傾ける者は少ないが、為すべきことをしている人々がいる。本当に、できることをやっている人たちが。
 そういう人々をテレビで見るたびに、本当にインスパイアされる。彼らの勇気、確信が入ってくる。彼らが沈黙せず、自分たちのやっていることの結果を目にできないとしても気にかけず、「できる限りやり続ける」ことに感銘を受ける。
 猿を救うためにアジアで十年戦っているイギリス人を見た時、蜂を救うために二十年も世界中を飛び回っている女性を見た時、森や自然を自分の子供のように守ろうとしている人々を見た時、どうしたら良いのか分からなくなる。彼らと同じ種であることを誇るべきなのか、彼らの純真さに恥じ入るべきなのか。
 しかし間違いなく、彼らには純真さとは何かということを考えさせられる。何かを重要だと信じること、それを為すべきだと考えるととは、一体なんなのか、と。
 彼らには脱帽する(脱ぐ帽子がないかもしれないけれど)。もし帽子があれば、そのすべてを脱ごう。
 「汝らがいずこにあれど、自分以外に何も興味もない民より、祝福を送ろう」。