2011年が開けて数分経った時、アレキサンドリアのアル=キッディーサイン教会で爆発が起きた。コプト教徒やムスリムが大勢死んだ。腹が立つのは、以前から教会に対するテロの脅しがかけられていたのに、何ら警備がなかったことだ。
こういうことが起きたら、一体何を言ってよいのか。
間違いなく、共謀や怠慢、汚職、無作法があったのだ。
多くの人々が取り調べられ、一人が取り調べ中に治安当局によって殺された。サイード・ビラールだ。元気な状態で治安当局に連れていかれ、死体になって戻ってきた。
ハーリド・サイードのシナリオが繰り返されたが、今度はマリファナの包みを飲み込んだというのは難しかった。というのも、彼はサラフィー主義の組織に属していて、敬虔さで知られていたからだ。内務省は沈黙を守り、サイード・ビラールが拷問によって死んだのではないことにするよう、司法解剖に対して圧力を加えた。
この時、チュニジアの人々が革命を起こした。ブアジージーというチュニジア人が、警察殴られたことと生活苦から、焼身自殺をしてからだ。チュニジア人たちはあらゆる場所でデモを繰り広げた。
デモは蛇の頭を落とすまで止まらなかった。
ジーン・アル=アービディーン・イブン=アリーだ。
僕たちの方の権力の犬どもは、大いに怯えた。この国の権力者たちは慢心仕切っていたからだ。評論家やジャーナリスト、地位のある人や責任ある人達は、ただ一つの言葉を除いて沈黙を通した。
エジプトはチュニジアとは違う。エジプトはチュニジアとは違う。
チュニジアで起きたようなことは、エジプトでは決して起こらない。
恐れながらも、ムバーラクは決して、民衆の意により無理やり去らせられることはない、と信じていた。
こうした言葉は、皆を一層刺激した。
目にするすべてが爆発しそうだった。
至って普通の人々が、不正が希望を砕いていると感じ始めた。複数の人たちが人民議会やその他の場所で焼身自殺を遂げた。
一月の後半、「我らは皆ハーリド・サイード」グループは、4月6日グループと、アル=バラーダイーを主たる象徴とする「変革を求める国家運動」グループ、およびネット上の反体制活動家らと共に、怒りのデモを呼びかけ、これを1月25日革命と名付けた。パンと自由、人間的尊厳を求めるものだ。
僕は、デモそのものを疑問視する人々の一人だった。今まで何も変えられなかったし、毎回おなじみの顔が現れるだけで、成果もなかったからだ。
大勢の人々が繰り出し、殴られ、家に帰り、何も変わらないだろう。僕は革命の呼びかけに対して冗談を飛ばしていた人間の一人だった。何はともあれ、革命という言い方が納得いかなかったからだ。日付も場所も、指導者や責任者の名前や電話番号も公開している革命がどこにある、という訳だ。
革命という段階に達することなど決してないのだから、デモという方がぴったりだ。
僕はいつも、ことをもっと賢く運ばないといけない、と言っていた。僕は冗談を言っただけで、皆も言うにまかせていた。デモに行くななんて言ってない。意見を言うのは自由だろう。でもこの意見を受け入れない人には嫌われてしまった。僕は名前の付け方について言っただけで、僕らの目的のことを言ったのではないのに。その目的については、僕も色々書いてる書き手の一人だったのだけれど。
それでも僕はデモにでかけた。
確かに僕は冗談を言っていた。
でも人々をからかったんじゃない。組織だてるやり方を冗談にしたんだ。
原則をからかったんじゃない。名前の付け方を冗談にしたんだ。
立派な人達をからかったんじゃない。民衆を二分しようとするヤツらを冗談にしたんだ。
半分の愛国者はデモに出て、デモに出ない半分は愛国者じゃない、というような。
僕らの関心事は同じだ。
僕らがいるのは一つのエジプトだ。
でも僕はデモにでかけた。
25日、シュブラに出ると、大勢の人がいて、僕は一緒にシュプレヒコールを叫んだ。
そして早めに帰った。というのも、ウマル、トゥアー、お前たちの特別な日に一緒にいないといけなかったからな。
お前たちの誕生日だ。
いや、ウマルの誕生日でもトゥアーの誕生日でもない。でも僕とママは、間の日に一緒にお祝いをしたんだ。一緒に楽しくやれるように。
お前が笑っていたのをよく覚えているよ、ウマル。僕はすごく幸せだった。トゥアー、お前はよく分かっていなかったよな。やっと一歳になったところで、小さすぎて全然分からなかったんだ。
その日は、ちょっと経つごとに友達のムハンマド・フサインおじさんと連絡を取り合っていた。アル=マトリーヤのデモの様子を聞くのに。その後彼も、お前たちの誕生日に合流したんだよ。
それから一度か二度、ドストールにも電話した。ニュースを入れるのに。
これは僕の過小評価に対する正しき言い訳だと思う。でもこの弁明は、28日の金曜日にデモに出るまでは完結しない。
何があってもデモに出る。
出かける前にシャヒーダ1を唱える。女房に子供を頼み、家族に女房と子供を頼んで。
火曜日の夜、内務省が恐ろしく愚かにもデモ参加者らを殴り、大勢の人々を拘束した。
携帯電話が遮断され、ネットが落ちてファイスブックも何もかも使えなくなった時、出かければボコボコにされるが、続けるだろうと思った。そして勝利すると。実際、その通りになった。
2011年1月28日の金曜日は、この日こそ僕は本当の革命の日だと考えている。この日僕には、一つ問題があった。
どこで金曜礼拝に出るか?
ギザ広場のアル=イスティカーマ・モスクに出るか。そこでアル=バラーダイーと「変革を求める国家運動」、それからイブラーヒーム・イーサー、ウサーマ・アル=ガザーリー・ハルブが礼拝すると知っていたから。
あるいはムスタファー・マフムード・モスクに行くか。そこを行進が出発して、これもまた大勢人のいるタハリールに向かうから。
あるいはまた、タハリールにあるウマル・マクラム・モスクか。最初からそこにいられるし。
アル=シャラービーヤのおじいちゃんおばあちゃんの家を出るまで、僕は決めかねていた。
スニーカーとジーンズを履いた。今日はかけっこ日和だろうから。全方向からタハリールに入るべく、治安部隊と鬼ごっこになるだろう。
アル=シャラービーヤでタクシーをつかめて、「ギザ広場」と言った。
オークトーブル橋についた時、僕は「まずムスタファー・マフムードに寄って様子を見られないから」と言っていた。
アラブ連盟通りに来た時、僕はここで降りる、と言った。アザーンが聞こえたからだ。プラカードを手にした大勢の人たちがいた。
知り合いの若者のほとんどすべてがいた。そして必ず全員がいるだろう、と感じた。ナウワーラ・ニグムがいて、靴を履いて礼拝するのはハラームじゃない、と何人かと話していた。
芸術家や文学者、ジャーナリストたち、愛国勢力の人々がいた。
芸術家では、ハーリド・ユースフ、ハーリド・アン=ナバウィー、ムハンマド・アル=アドル、ターミル・ハビーブ、アースィル・ヤースィーン、ハーリド・アッ=サーウィー、ジハーン・ファーディルなどがいた。
僕の世代の作家や文学者だと、ムハンマド・サラーフ=アル=アザル、アイマン・マスウード、ムハンマド・アッズ=ッ=ディーン、アフマド・アブドゥルガウワード、ムハンマド・ムスタファーなどがいた。
ハムディー・アブドゥッラヒームおじさんに会った。彼は目の手術を受けたばかりだったのに、催涙ガスが術後に与える危険も顧みず、断固として参加したのだ。
年寄りもいたし、家族と一緒の子供たちもいた。金持ちも、貧しくても誇り高い人たちも。
あらゆる階層の若者、ヒガーブの女性、ニカーブの女性、リベラルな女性たちが、意見を交わしていた。
身体すべてを覆っている女性もいれば、ものすごく進歩的な女性もいた。もし別の日にそんな格好で出かけたら、間違いなく痴漢にあっていたような格好の。
でも奇妙なことに、彼女たちに触れる者はいなかったし、素晴らしい敬意が払われていた。
皆目的は一つで、他のことには目もくれなかった。
そして金曜礼拝の説教が始まった。
とてもヘンテコな説教だった。始まった時の雰囲気と来たら、まったく普通じゃなかった。
説教師は言った。「本日の説教の本題に入る前に、とても重要な件について注意させて頂きたい」。
僕らは、何が来るんだ、と考えた。でも彼がキメたのは、この日最高に面白い一言だった。
「皆さんにお願いしたい」。
ええ、ええ、聞きますよ。
「皆さん、携帯電話の電源を切っていただけないでしょうか」。
皆が爆笑して、喝采した。というのも、そもそもエジプト全土で携帯が遮断されていたのだから。
矛盾をはらんだ説教だった。
人々が拍手喝采する時もあった。
納得いかない調子で手を叩くこともあった2。
この人物が誰の味方なのか、誰にも分からなかった。
アッサラーム・アライクム・ワラフマト・ラー3の直後に、「エジプト万歳」の声が上がった。
歓声が広場を揺さぶった。治安部隊はこの日、相当に怯えていた。内務省の司令官すら、不安そうに見えた。
すべてのシュプレヒコールがやって来ては去り、ついに一つのものに集まった。
「民衆は体制転覆を求める!」。
僕らは集まり、バラつき、包囲していた治安部隊を撹乱した。
モスクの前から、アラブ連盟通りに出た。
それから、シュプレヒコールをあげながら、英雄アフマド・アブドゥルアジーズ通りに向い、窓やバルコニーから僕たちを見ている人たちに向かって「同志よ、一緒にやろう!」と声をかけた。
すべての友達や同僚、僕の大好きな人たちに会った。
目を引いたのは、一人の五十代の女性だった。お母さんと見まごうような歳だ。
大喜びで「おおアッラー、おおアッラー」と声をあげながら走っていた。
二十歳そこそこの勇敢な女性。
子供連れでやって来ている家族。
サラフィー主義者のシェイフたちは、参加しないと言っていていて、そのいくらかは親父風を吹かせていたのに、彼らの多くが組織の決定に逆らい参加していた。
キリスト教徒たちもいた。彼らはコプト司教の「家に留まりエジプトの為に祈りなさい」という言葉を無視してきたのだ。
英雄アフマド・アブドゥルアジーズ通りは、見渡す限り人波だった。
後ろを向いても人、前を向いても人、そして皆が叫んでいた。
「民衆は体制転覆を求める!」。
「ガマールよ、親父に言っておけ、エジプト人民はアンタが嫌いだと!」
「辞めろ辞めろムバーラク! サウジがお前を待ってるぞ!4」
誰の目にも断固たる決意があった。
今まで見た事もなく、そんなものが皆の中にあると想像したこともなかった決意だった。
本当に耐え忍んできた人々の、堪忍袋の緒が切れたのだ。30年間耐え続けてきた「ラクダ」たちの5。
皆、素晴らしく秩序だっていた。
彼らは間違いなく怒っていた、例えばハゲの嘘つきウサーマ・サラーヤのような男の言葉に。この男はアル=アハラーム紙の編集長だが、この二千人、三千人の人々をエジプト人とは認めなかった。あるいは、ギャーギャーやかましいので有名なガマール・ムバーラクの腰巾着アブドゥッラー・カマール。こいつは、この人たちがムスリム同胞団の援助を受けていて、外国機関に組織されたものだと言った。あるいは、政治も分からず人気もないアリー=ッ=ディーン・ヒラール。権力の小間使いとして過去も未来も失い、民衆を馬鹿にし、こいつらはエジプト人民にとって何でもない、と言い放った。あるいは、名の知れたポン引きサフゥワト・アッ=シャリーフ。テレビで民衆をなだめようとして余計刺激することになった大馬鹿だ。
すべての人々が、体制を転覆しようとしていた。本気でだ。冗談じゃない。僕は、今日という日は燃え上がり、多くの血が流れ、歴史的な日となるかもしれない、と予感した人々の一人だ。多くの人々にとって、殺戮と体制転覆に結び付けられ続けるかもしれない、と。人の良い人たちは、内務省も火曜日の愚を繰り返すまい、ことを上手く収めようとするだろう、と言っていたが、もちろんそんなものは絵空事だった。
僕らはドッキの近くまで歩き続けた。
そして出迎えたのが催涙弾だ。
僕は初めてこれを味わった。
目が燃えるようだった。
鼻がすっかり詰まってしまった。
呼吸できる空気を求めて喘いだ。
水で洗ってもダメだった。
酢も僕の場合は有効じゃなかった6。
最高だったのがペプシだ。
ペプシを買って目を洗った。
本当に素晴らしかった。
親切な人たちが道すがらスーパーで大量のペプシを買ってきて、デモ隊に配った。決してケチることもなかった。
この日は誰もが互いに助け合った。
ドッキ通りを進んでいくと、治安部隊が退却した。
タハリール通りに着くと、また治安部隊が退却した。
シラトンとアグーザ署のところまで広場を封鎖するところまで来た。
治安部隊の車が通行を止め、催涙弾の集中砲火を始めた。
イスラエルの占領軍がパレスチナ人に対してやっているみたいなことになった。
誰かが「やっちまえ!」の「や・・」を言いかける度に、別の者が「平和的に! 平和的に!」と叫んだ。
下品な言葉もなかった。
誰も嫌がらせめいたことはしなかった。
ガソリンスタンドが近いのに、催涙弾はどんどん増えていった。内務省は誰一人として一瞬たりとも安全のことなんて考えていなかった。僕らについても、近隣住民についても。
本当に何も考えていない、野蛮人のような行いだ。
それから、馬鹿げたごとに、ゴム弾攻撃の段階が始まった。
大勢の人たちが、血を流して最前列の方から来るのを見た。
どんどんヒートアップして、弾丸でバルコニーに火がつくところまで行った。
皆ますます興奮していた。とりわけ僕らはよく知っていたのだ、メディアはデモ隊がバルコニーを燃やしているかのように映すに決まっていると。
それからまた追いかけっこになった。
マイクを手にシュプレヒコールを先導する人たちが現れた。
新しい歓声が皆を沸き立てた。
「アッラーフ・アクバル! アッラーフ・アクバル!」
それからまた別の歓声が、皆を勇気づけた。
「おお主よ! おお主よ!」
シュプレヒコールを上げている人々の中に、ハーリド・アッ=サーウィーがいた。ますますボコボコにされる中、オリジナルのコールをあげて、皆がこれに続いた。
「爆弾でもガスでもかかって来いや!」
大勢の人たちがこれを叫んだが、また公式のシュプレヒコールに戻った。
「民衆は体制転覆を求める!」。
引きずり回されてボコボコにされて、もうダメだ、これ以上どうにもならない、と思ったところで、援軍が来た。
ギザ広場から来た大勢の人たちが、ムスタファー・マフムード発のデモに合流したのだ。これで皆勇気百倍になり、治安部隊がたじろいだ。
それからしばらくして、形勢が好転した。
どうしてそうなったのかよく分からないのだが、皆が恐れながらも勇気に満ち溢れてきた。
シラトンのところでは、「誰も殴ったらいかん」と言った警官に対して、大歓声があがった。
皆が彼らを褒め称えた。
別の警官は、盾の後ろに構えて逡巡していた。
殴られるのだろうか、見逃して貰えるだろうか、と。
武器を取るか、合図して仲良くするか、手が迷っていた。
とても奇妙な光景だった。この警官たちは、皆の礼儀正しい態度を忘れることはないと思う。
進んでいった僕たちは、オペラ駅の前で4台の治安部隊の車を見つけた。
僕らのだ!
ああ、僕らのさ!
皆がその上によじ登ると、将校たちは逃げ出して、可哀想な兵卒たちが中に取り残された。
あの恐ろしかった治安部隊の車に、「もう沢山だ」「ホスニー・ムバーラク打倒」「民衆は体制転覆を求める」「平和的に!平和的に!」などと落書きされた。そんなものを目にするのは生まれて初めてだ。
デモ隊は大喜びで、車の上で踊り出し、まるでエジプトが解放されたかのようにエジプトの国旗を掲げた。
隊長クラスの警官を捕まえて、車を渡すように言った。「誰も壊したりしないから」「怖がんないでいいよ、何もしないから」。隊長はしょんぼりうつむいて行ってしまった。
アスル・ニール橋側のオペラ入り口のところで、真の愚昧が始まった。治安部隊が実弾と散弾銃を使い始めたのだ。
この日、多くの人が死んだ。
救急車が来て、死んだり怪我をした哀れな若者たちを運んでいった。
忘れられない光景がある。足や身体のあちこちを撃たれて血まみれになった若者が、仲間たちに救急車へと運ばれながら、それでもまだシュプレヒコールをあげていたのだ。
「民衆は体制転覆を求める!」。
催涙弾も実弾もますます増し、死傷者も増えていった。治安部隊の車がわざと人を轢いていった。実際、大勢の人たちが轢き殺された。時と共に、やり返したいという気持ちが強くなっていった。デモ隊のそばにいた警官たちや、少し離れた別の任務についていた警官たちは、警官だとバレないようにセーターを着始めた。一部のデモ隊が、これだけ殺されて平和的デモなんてできるか、と言い始めたのだ。
この時、別の種類の人たちが現れ、叫び始めた。
援軍に来た人たちだ。警察だって俺らと同じなんだ、銃を持っているから強いなんてことないぞ、と煽ったのだ。
大衆地区に暮らし、喧嘩の要領を心得ている人たちだった。血の熱い、僕ら皆んなと同じくらい誇り高いヤツらだ。それ以外に何も持っていない男たちだ。
彼らが状況を変え始めた。手出ししたらタダで済むと思うなよ、と言い始めたのだ。
暴力には暴力だ、煉瓦を投げろ、と言う者たちもいた。
でも皆は自制した。弾丸は言葉を失うほど降り注ぎ、催涙ガスで大げさではなく何も見えなくなった。
タハリール広場に断固進もうとする人々を阻止すべく、装甲車らがアスル・ニール橋にまで入ってきた。催涙弾もだ。それから逃れようと走る人たち以外、何も見えなくなった。
催涙弾を投げ込まれると、それを投げ返したりナイルに投げ込んだりした。その日ナイルには船もなく、大人しく出来事の証人になろうとしているかのようだった。
ゲジーラ、サラーイ・ル=ゲジーラ通り、ムハンマド・アブドゥルワッハーブ通りに入ったが、どこに言っても大勢の人たちが加わってきた。
彼らがどこからやって来るのか分からなかったが、味方なのは確かだった。
どこもかしこもエジプト国旗だらけになり、ワールドカップの決勝戦みたいだった。僕たちはザマーレクまで走り続けた。
5月15日橋に出てきた人たちが加わった。デモ隊のいる橋はどれも催涙ガスで霧のようになっていた。
ザマーレクに入ってもまだ人が増え続けた。
アル=アグーザの方から5月15日橋にあがると、警官たちが待ち受けていて、両側から挟み撃ちにされてしまった。
僕はもうフラフラで、息もできなくなっていた。
女房と子供たちを安心させてやらないといけなかった。テレビで何が放送されているか分かったもんじゃないし、心配で皆んな死んでしまうかもしれないから。
とうとう車を見つけて合図すると、人々が乗っていた。どこでもいいから連れて行ってくれ、と言った。
どこの通りだかも分からなかった。
車の中で、全エジプトがデモに出ていると知った。
イムバーバも、スーダーン通りも、コルネーシュもシュブラ・ッ=ムザッラートも、アル=ハザンダール・モスクのとこのアル=ハラファーウィーも。あらゆる場所で人々が繰り出し、シュプレヒコールを叫び警官に立ち向かっていた。
それだけじゃない。エジプトのすべての県で、一つの言葉が叫ばれていた。
「民衆は体制転覆を望む」。
とうとう僕はセントラール7を見つけて、自分がイムバーバのティルア=アル=サワーヒルという通りにいると分かった。
家に電話すると、皆んな本当に怯えていた。衛星放送の伝えいてる映像は、見ている者を震え上がらせていた。でも誰もが、これが革命なんだと完璧に理解していた。
エジプトすべてが、本当の革命下にあった。
そんな名付け方はおかしいと僕が言っていた革命が、本当の革命になったのだ。
皆が外に出ていた。
確かに、僕がアッ=シャラービーヤに帰った時は、外出禁止令が発令されたところだった。大統領がそう命令せざるを得なかったのだ。警察が跡形もなく消えて、軍が出動した後のことだ。その後は、皆の勝利と革命に向かって、ことは素晴らしい勢いで道を突き進んでいった。
治安部隊や警察の車が燃やされだした。
ムバーラクは、軍を出動させ外出禁止令を出すしかなくなった。エジプト国旗を掲げた軍を、皆は大歓迎して丁重に迎えた。警察がグダグダになって消え失せた後で。
そして報復が始まった。
誓って言うが、これを始めたのは革命勢力じゃない。スラムやその他の場所で、体制に対して恨みのある者たちが始めたのだ。
あらゆる場所で警察署が破壊された。それから、ナイル沿いの国民党本部も燃やされたが、これだけが唯一、革命勢力が確実に放火に参加したと言えるものだ。
この象徴、彼らの中にわだかまった仇敵を破壊しボコボコにしたのだ。
実際、国民党は、この時にこういう形で壊されないといけなかった。
学生の時に研究のために通った報道最高評議会事務所については、確かに僕は悲しかった。でも国民党は暴君だったし、警察は癌で、そのままではどんな化学療法も意味を為さなかった。取り除く必要があった。
もしまた誰かを殴ったら、民衆すべてが立ち上がるあもしれない、と思い知らせるために、この日に破壊されなければならなかった。不当な扱いをし拷問を加えれば、報復があるのだ、と。{この報復の掟には、あなたがたへの生命の救助がある}8。
これは全部良かった。
良くなかったのは、ガラの悪いのが現れたことだ。
ことは教養ある若者たちが始め、これに様々な場所の様々な筋の人々が沢山加わってきたものだ。これらは皆、尊敬できる人たちだった。
尊敬できないのは、その後加わってきたガラの悪いのだ。
突然、タハリール広場からかけ離れた、チンピラとコソ泥と仁義なきヤツらの革命になった。
生活をマシにしようと、この機を利用しよとする者たちが現れた。突然国は、今まで目にも入れず、助けることもなく、暮らしをマシにしてやろうともしなかったものに代償を支払うことになった。
強奪されたアルカディア・モールやマアーディのカルフールを見れば明らかだ9。間違いなく、もっと多くの場所で、革命の名のもとに強奪が行われたことだろう。
これは腹ペコ革命だった。
ビラール・ファドルが映画「情ある旦那」でやったみたいなことだ。こんなことはエジプトで起こったことがない、と皆は言った。
本当に恐ろしいことだ。
そんな中、僕はアル=ジャジーラやアル=アラビーヤ、BBCやアル=フッラの虜になっていた。エジプトのメディアを心底馬鹿にし、嘘つきの報道相アナス・アル=フィィーを嘲り、公式っぽいものは全部嫌いになった。
問題は、ホスニー・ムバーラクなる男がいつ話をするのか、ということだ。
お隠れからご尊顔を拝せるはいつになるのか。
今だに事実を認めず、取り巻きたちに「つまらないヤツらのやってることです」とか言われてる気がしたのだ。
奇妙なことに、彼は夜現れた。
12時過ぎにだ。ミッドナイト・パーティにでも登場するように。政府に辞任を求め、いくつかの改革を行うと言い、一日が奇妙な終わり方をした(解任するとすら言わなかった)。そんな局所麻酔は誰も信じなかった。
彼の言葉には何の新しみも、信頼性も、本当の責任感も感じられなかった。
要求の天井が上がった。この男を辞めさせないといけない。
僕はとても大事なことを自分に問いかけた。
もしこの男が、革命も怒りもなしで良い感じで振舞ったり、僕らがドストール紙やその他の真っ当な新聞で喚いてきた言葉や、本当の価値ある反対派の声に耳を傾けたり、以前は立派なカードで、自分でぶち壊す前はズタボロのカードなんかじゃなかったアムル・スレイマーンを副大統領に任命していたら。それから、エジプトをブチ壊してその上にあぐらをかいていたナジーフの腐敗内閣。僕らはあの内閣について、ずっと文句を言ってきたのに、彼は頑として動かず、エジプトの歴史上最も成功した内閣とまで言った。ホスニー・ムバーラクが、あの内閣を改造していたら。彼がもし、僕らや自分自身、そして彼の経歴を尊び、腐臭を放ち国全体を苦しめていた実業家大臣たちを裁いていたら。間違いなく、僕らも彼をもうちょっと尊敬し、もっと許していたんじゃないだろうか。
良い仕事をしたと認めて、良い思い出が残ったんじゃないか。
ところがこの遅さはどうだ。この怠慢、ノロマぶりときたら、卵の殻の上でも歩いているようだ。
とにかく、起こることが起こった。
でも皆はここで、ますます目覚め要求していくか、それとも彼の口にした麻酔に黙らされてしまうのだろうか。
この返答の仕方自体もまた、希望を打ち砕くものだったのだけれど。
世の中はめちゃくちゃのグチャグチャなのに、彼は遅れて出てきた上、大事なことは何も言わなかった。後になって副大統領を指名し、ナジーフの代わりにアフマド・シャフィークを据える、と言ったが、この日はそういう大事なことは言わなかった。
これほどまでに、皆の要求に対して、責任ある者たちは聞く耳を持たないのか。
これほどまでに、政治的に無能なのか。
僕は不思議だった。
そしてもっと奇妙だったのは、その後の日々で起こったことだ。
皆がタハリールでただひとつの要求を断固として掲げた時のことだ。
ムバーラクよ、辞任せよ、という要求を。
彼らは断固たる態度を示した。だが、多くの人々がスパイか何かのように映され、警察は隠していたが、外出禁止令の間にも人々にテロ行為を行い、空に向けて銃を打って家にいる人たちを怯えさせ、刑務所を開き犯罪者たちを野に放ち、まるで無政府状態を望んでいるかのようだった。それでも、貧しい人々のいくらかは彼らに同調し、革命思想に同調する者なら誰彼なく差し向けられた敵意に対抗した。
残念なことに、酷く下劣なゲームがこの時行われた。
囚人たちが脱獄し、人々に放たれ、間接的な脅しがかけられたのだ。気を引き締めて、ゴロツキどもに立ち向かわなければならない、と。
彼らは、僕らの神経を参らせてしまおうとしたんだ、ウマル。怖がらせて、その恐怖の元はデモなんだ、と思わせようとした。タハリールの連中が家に変えれば、安全も安定もすぐに戻る、というように。
こんな汚いやり方があるか?
皆は町に出て、会合を開き、僕らを脅したり盗んだり揺すったりしようとするヤツらに備えた。
もう辱めも恐怖もないんだ、と言った。
警備のために、家の前の道で寝ずの番をした。車を調べ、武器をもったチンピラをつかまえて、軍に引き渡した。
こうしたことを極めて礼儀正しく、勇敢に男らしく行なっていた。
彼らの方が、警官たちより勇敢でずっと良いことがはっきりした。彼らときたら、恐れて家にこもり、自分たちがいないとどうなるのか、という取引をしていた。皆をどれだけ犯罪者扱いしてきたか分かっていたので、怖かったのだろう。
シャフィーク新首相が、初めてテレビに登場した。そしてデモ参加者らの安全にクビをかけ、その保護に自らあたる、と語った。
でもすぐ次の日には、この微妙な状況、歴史的な時期にあるのに、言葉や役職に相応しい登場の仕方をしなくなった。シャフィークは弁舌がたち、民衆に肩車される英雄にもなれたかもしれないのに。
まさにその日、国民党指導部および腐敗した実業家たちに援助されたムバーラク支持派が、剣やナイフ、爆弾や火炎瓶を手に、ラクダや馬に乗ってやって来た。タハリールの人々を攻撃し、戦いの末多くの殉教者を出したが、タハリールが勝利した。
彼らが勝てたのは、信念と決意に突き動かされていたからだ。腐敗した人民議会議員や国民党員のように、金に釣られているのではないのだ。
その立派な姿が世界に放送された。また、負傷者や、残念ながら亡くなった人たちを迎え入れるため、若い医師たちによる市民病院が広場の中心に設営されていた。
この日の後、ムバーラクは辞めるべきだった。
もう血も権力への固執もたくさんだ。
もう頑迷はたくさんだ。
時が過ぎても、人々は諦めなかった。
時が過ぎても、世界を驚かせた人々は、素晴らしい規律を見せ、自分たちが文明人であることを証した。
何度もの百万人デモが行われ、本当のエジプト人、国を守る意識ある若者たちを僕は目にした。
男たちは女たちを守り、この時の広場では、ただの一つも痴漢や暴行も盗みもなかった。
若者たちが自発的に広場入口を防衛し、広場に入る人を調べ、身元を確認した。武器を持った者が入ったり、騒乱を起こすのを防ぐためだ。それも極めて礼儀正しく行われた。
世界的建築家のマムドゥーフ・ハムザが何千枚もの毛布を購入し、広場で夜を明かす人々のために手洗いを手配した。
メリット出版社の愛国者ムハンマド・ハーシムは、夜を明かす人々のためにタハリールに宿泊所を作った。本の即売会を延期させ、大損害を被ったのに。何千ものサンドイッチを購入し、自ら広場の人々に配った。宿泊所で過ごした人々にとっては、この困難な時期にあり、そここそが真の家となった。
広場近くに住む人々は、広場で夜を明かす人々、とりわけラクダ隊事件の日に家に帰れなかった女性のために、家を開放した。この女性たちを男たち皆が守り、一つの喧嘩も無作法もなかった。ユートピアにでもいるようだった。
地方から出てきて「ノー」を叫び、ムバーラク辞任まで帰らなかった人々がいる。
何万もの人々が、広場の真ん中で礼拝した。コプト教徒たちは十字架を描き、祈り、ムスリムたちのウドーゥ10を手伝った。
僕は広場に、主がその偉大さ、寛大さ、公正さ、慈しみと共にあるのを見た。アッラーの美名すべてが、タハリールにあった11。エジプトの歴史の生んだ最も良き人々、エジプトの新たな歴史を作った人々により、現実の地に実現された。誰一人この革命が自分のものだ言ったり、自らの手柄にしようとせずに。
だから皆は広場を去らなかった。勝利を掴むまで、何があっても。
だからホスニー・ムバーラクは去った。自らの意志に反して。
2月11日の声明で、副大統領ウマル・スレイマーンが、ムバーラク大統領がすべての権力から去ることを発表した。世界が驚いた。
そう、これで終わったのだ。
彼は去った。
辞めた。
辞任した。
元大統領になった。
まったく!
やっとだ!
なんという喜びだろう。何百万人もが道に繰り出し、エジプトの名のもとに歓声をあげた。「民衆は体制を転覆させた!」。
何百万人もが、今まで喜んだことがなかったかのように喜んだ。
アッラーフ・アクバル、素晴らしいエジプトの若者たちが、その言葉を実現し、体制に打ち勝った。
まったくなんということだろう!
腐敗した者たちは互いに足を引っ張り合いだした。彼らの渡航禁止と裁判が決定され、遂に馬脚を顕とし、取り除かれた。
確かにゆっくりとではある。一歩ずつだ。エジプトの汚職は小さくも少なくもなく、汚職が普通で高潔の方が例外だったのだから。
ウマル、トゥアー、今これを書いている時に、繰り出し広場に加わった若者たちが、エジプトを新たに建て直そうとしている。内務省は数えきれないほどの罪状の山だった。間違いなく、死ぬまで投獄されるよう裁定が下るだろう。
アフマド・アッズも投獄された。彼と大臣どもがどれほど憎かったか。あの腐敗した者たちを、(元)大統領とその御曹司が守っていたのだ。
怒鳴り散らし嫌な目で見て、賄賂を取ろうとする警官もいなくなるだろう。
おお、エジプトよ!
これが僕の愛する国。子供たちが育つ国。この国を僕らは世界一の国にするだろう。
ウマル、トゥアー、僕からの助言は、この時期についてのものを沢山読むことだ。
何でも読むんだ。君たちの国が好きになるし、不正に黙っていることもなくなるだろう。
戦い、勝利するんだ。
諦めたらいけない。善が弱く、正義の声が小さいなどと考えるな。
どれだけかかろうと、正義は勝利する。善の声が暴君の耳を塞ぐのだ。
ちびっとちょっとだ。まだお話は終わってない。エジプトは最高だ。決して負けることがない。
パパより