数えられなかった羊

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アラブ、イスラーム、アラビア語、現代思想関係書籍の書評、映画レビューと言語・精神分析を巡るメモ

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Archive for ノコリモノ

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「それはあなたの声ではないですか」

「それはあなたの声ではないですか」
「そんなはずはありません。わたしは声が出ないですから」
 いかにして「狂人」の言葉は、真理を射当てているのか。
 確かに、彼または彼女に、自由に語れる言葉などない。人間たちが「彼の言葉 [...]

ミミを閉ざす、イミを閉ざす

 本当に、耳を閉ざすことができない、ということが決定的なのだ。
 意味は、常にわたしたちが理解する前に現れる。
 理解が意味を示すのではなく、与件のように意味がやってくる。そして耳は、聞こえすぎないことにより音を分節する [...]

美は羊たちを静かな眠りにつかせ、愛は不愉快で避けがたい目覚めを仲裁する

 <思考するわたし>が「見るわたし」だとしても、<存在するわたし>は「見られるわたし」ではない。
 というのも、わたしたちが「見られるわたし」と呼んでいるものは、正確に言って「見られているのを見ているわたし」でしかないか [...]

目印の瓢箪

 ナスレッディン・ホジャ、あるいはジョハーの物語に、こんなものがあった。
 ある愚か者が、初めて大都会に行き、あまりの人の多さに驚いた。
 こんなに人がいては、どれが自分だかわからなくなってしまうと思い、寝る前に瓢箪を足 [...]

神の意志がどこにあるのか、その転移によってのみ、意味は運動している

 世界は意味で充溢しているが、意味に意味はない。
 意味による充溢という精神病的モデルを唾棄するのは、むしろ特殊近代的な神経症的モデルにすぎない。わたしたちは、とても長い間意味によって満ちた世界を生きてきたし、今も生きて [...]

手が届くということは、見えないということ

 もっと目が覚めると、もっと呼吸が浅くなる。
 目覚めているより、もっと目覚めているのは、高い山に登るようだ。
 気が付かないうちに、空気が薄くなっている。
 時の流れに呼吸が追いつかない気がして、慌てて呼吸すると、もっ [...]

わたしが見ているということは何によって確証されるのだろうか

 わたしが見ているということは何によって確証されるのだろうか。
 わたしは今、本当に見ているのだろうか。
 目を閉じてまた開いた時、見えるこれは、わたしの見ているものなのだろうか。
 これは、「これ」が「あれ」ではない、 [...]

「わかっていない」ことをわかってしまっている時、わたしたちは外国語を上手く話せていない

 真理を語っている時、わたしたちは常に「自分の言っていることがわかっていない」。
 そして母国語で話す時、あるいは十分にある言語に「感染」されたとき、わたしたちは「自分がわかっていない」ことがわからなくなる。
 慣れない [...]

言語に少なくとも一つの盲点がなければ、意味と世界は区別が付かなくなる

 固有名詞の誘惑は、死の欲動に由来する。
 何か欠片のようなもの、言語経済の外に根を張ると想定されるもの。
 しかし実は、その欠片が正しく欠片として機能するのは、言語の臨界という意味で、正しくそれが言語に依拠しているから [...]

日本語の時制、過去はいつから過去なのか

 アラビア語の時制は過去・現在・未来ではなく完了・未完了を軸としている。行為がその本質において完了しているかしていないか、が中心になっていることになる。
 先日アラビア語で作文している時に、ふと日本語について気づいた。
[...]

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