『理性の限界―不可能性・不確定性・不完全性』高橋昌一郎

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4062879484 理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)
高橋 昌一郎
講談社 2008-06-17

 久しぶりに大学一年生みたいな本を買って、身近なお方に鼻で笑われながら読んでみたのですが、思っていたより面白かったです。

 初めに割とどうでもいいことを書けば、こういう対話スタイルに落とした本というのは、正直好きではありません。この手のスタイルの哲学系一般書籍が見られるようになったのはいつ頃からなのでしょう。ちょっと気持ち悪いです。それ以前に、最近の米流哲学系のノリというのが好きにはなれないのですが。
 ただ、同じ系統の人で似たノリの本を書くローティ屋さんの富田恭彦先生に、学生時代お世話になっていたことがあり、この人も思想的な方向としてはツボではないのですが、人間的に素晴らしい人で、かつお話もとても面白かったのを思い出します。単なるそれだけの連想ですが、多分この本の筆者の方も、話の面白い人ではないかと思います。アメリカ帰りの哲学者はプレゼン上手いですね(笑)。『理性の限界』も、一般大衆のウケという意味では非常に良いでしょう。
 
 この本は、第一部で社会科学、第二部で自然科学、第三部で論理学や数学といった形式論理における「理性の限界」を扱っているのですが、第二部・第三部で扱われている内容は個人的にかなり馴染みがあったのに対し、第一部の内容は新鮮で、特に興味深く読むことができました。
 この中で、様々な投票方式(選択方式)が、一見合理的に見えてそうでもないことが明かされた後、「完全民主主義の不可能性」としてアロウの不可能性定理が紹介されます。

アロウは、無数の投票形式を「社会的選択関数」によって一般化し、合理的な個人的選好と民主的な社会的決定形式を厳密に定義してモデル化しました。そのうえで、そのモデルを用いて、完全に民主的な社会的決定方式が存在しないことを証明したわけです。その後アロウは、この業績をさらに数学的に厳密に校正して「一般均衡理論」の定式化を導き、一九七二年にノーベル経済学賞を受賞しました。

 本書で非常に噛み砕いて説明してくださっているものを、さらにまとめてみると、

 合理的な個人選好は次の二条件を満たさなければならない:
①選好の連結律:いかなる選択肢XとYに対しても、XよりYを好むか、YをXより好むのどちらかが必ず成立する
②選好の推移律:もし個人がXよりYを好み、YをZより好むなら、XをZより好まなければならない

 民主主義社会は以下の四条件を満たさなければならない:
①個人選好の無制約性
②市民の主権性:社会を校正するすべての個人が一定の選好を示したら、その選好は社会的決定でなければならない
③無関係対象からの独立性:二つの選択肢の選好順序は、他の選択肢の影響を受けない。個人がXよりYを好めば、たとえZを含めて考慮しても、同様の順序で選択する
④非独裁制:ある特定個人の選考順序が、他の個人の選考順序にかかわらず社会的決定となることはない

 その上で、個人が二つの条件を満たし、社会が四つの条件を満たす「完全民主主義」モデルには、論理的な矛盾が生じることを証明した、といいます。例えば、個人が連結律を満たし、社会が四つの条件を満たす場合には、個人の推移律が成立しません。
 詳細は本書を参照して頂きたい、というか、本当に理解しようと思ったら相当敷居が高いのかと思いますが、イメージとしては掴めます。これは非常に興味深いです。
 「民主主義」という概念は、単なる選択の方式にとどまらず、模糊としたイデオロギー的な「正義」として流布している訳ですが、そうした「物語化」が可能であるのは、むしろ厳密な意味での民主主義が不可能だからではないでしょうか。そこに空隙があり、無矛盾ではいられないからこそ、ファンタジーとして機能する。
 
 このすぐ後で語られる、「囚人のジレンマ」において、「しっぺ返し」戦術が最強であった、という話もとても面白いです。
 囚人のジレンマとは、

共同で犯罪を行った(と思われる)2人が捕まった。警官はこの2人の囚人に自白させる為に、彼らの牢屋を順に訪れ、自白した場合などの司法取引について以下の条件を伝えた。
もし、おまえらが2人とも黙秘したら、2人とも懲役2年だ。
だが、共犯者が黙秘していても、おまえだけが自白したらおまえだけは刑を1年に減刑してやろう。ただし、共犯者の方は懲役15年だ。
逆に共犯者だけが自白し、おまえが黙秘したら共犯者は刑が1年になる。ただし、おまえの方は懲役15年だ。
ただし、おまえらが2人とも自白したら、2人とも懲役10年だ。
なお、2人は双方に同じ条件が提示されている事を知っているものとする。また、彼らは2人は別室に隔離されていて、2人の間で強制力のある合意を形成できないとする。
このとき、囚人は共犯者と協調して黙秘すべきか、それとも共犯者を裏切って自白すべきか、というのが問題である。
囚人のジレンマ – Wikipedia

 というもので、つまり二人が共に協調すれば両者共に最大利得を得られる一方、どちらか片方が裏切った場合、裏切られた方は最大損失を被る、という状況設定です。
 こうした選択を連続的に行い、どのような戦術が最も多くの利得を獲得できるか、コンピュータプログラム同士で戦わせたところ、最も単純だった「しっぺ返し」作戦が最強であった、というものです。
 「しっぺ返し」作戦とは、最初の一手については無条件に「協調」を選択し、その後は相手の出した手と同じ手で返す、というものです。つまり、相手が裏切れば、次は必ず自分も裏切る。ただしその後で相手が協調に転じれば、(過去のことはさっぱり忘れて)協調を選択する、というものです。
 このものの考え方は、非常に多くの社会的局面に応用できそうで、興味を惹かれます。
 
 最後に、ここは神様を信じている頭のおかしいシューキョーの人のブログなので、ちょっと神様がらみのことを取り上げます。

グリムの神の非存在論によれば、不完全性定理が、中世以来の神学論争を決着させることになります。というのは、「神」が、すべての真理を知る無矛盾な存在であれば、そのような「神」は存在しないからです。
 証明は、非常に簡単です。すべての真理を知る「神」は、もちろん自然数論も知っているはずであり、自己矛盾するはずがありません。ところが、自然数論の不完全性定理によって、ゲーデル命題に相当する特定の多項方程式については、矛盾を犯すことなく、その真理を決定できません。よって、すべての真理を知る「神」は存在しません。
(…)
 グリムも、彼の証明が否定しているのは「人間理性によって理解可能な神」であって、進学そのものを否定するわけではないと述べています。ただし、少なくとも、神は、いかなる形式的あるいは合理的な考察からも、本質的に認識不可能でなければならないことは明らかと言えます。つまり、神は、理性では認識不可能な存在なのです。

 このすぐ後で、「カント主義者」のツッコミとして「神を人間理性で認識できないことなどとっくにカントが述べている」と言われていますが、少なくともわたしや、わたしと多少話が通じそうな信仰をもつ人々にとっても、割と自明なことでしょう(そういうムスリムが多数派だとは全く思いませんが)。
 人間理性から見る限り、神様は不条理です。神様はもう本当に、めちゃくちゃですよ。こういうことを言うと、多くのムスリム同胞に怒られそうですが、わたしはそう考えているし、だからこそ信仰を保っているつもりです。わたしは、わたしの理性およびその延長によって捉えられるものが、わたしを生み出し律しているとは到底考えられないし、そうしたものに傅くのは不正義であると信じています。翻せば、わたしの目から見て矛盾に見えることを、理性の方を黙らせて信じるから、信仰なのでしょう。だからといって、むちゃくちゃなものをただ無条件に信じるということとも違いますから、これで話が終わりになる訳ではないですけれど。
 そうした矛盾を孕む運動体というのは、他にも沢山あって、例えば上で触れた「民主主義」というファンタジーにしても同様です。そして「偶像」として警戒しなければならない対象とは、このような諸ファンタジーなのではないかと、わたしは考えています。これらを厳密な意味で完全に排除するのはほとんど不可能で、だからこそ「偶像」は積極的に禁止される訳ですが。
 ではなぜ、一見そうした諸々の一つに見える唯一なる神を信じるのかというと、ここで言う神、アッラーとは、そのような生ける幻想の中で唯一「本物」だからです。というより、定義上(本当はちょっと違う)、唯一の例外として括りだされる存在こそアッラーです。
 この話はとても長くなるし、言うだけ無駄な気もしているので、またの機会に譲ります。神様が存在することは、わたしが存在するのと同じくらい、か弱く意味不明でかつ疑い難いことです。

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